焼きカレー

 先週末、九州の方までふらっと行ってきた。これといった目的はなく散歩の延長線上のような感覚で新幹線に乗り込んだのだが、せっかく九州に行くのだからということで、以前から気になっていた、福岡県にある焼きカレー発祥の地、門司港を訪れてみようと思った。

 

 私が焼きカレーという料理を初めて食べたのは去年の秋頃のことだった。東京の武蔵小山焼きカレーを看板メニューにしたカフェバーがある。そこは私の大学時代の友人が経営する店だ。大学卒業後に民間企業に就職して名古屋で働いていた彼は昨年脱サラをし、東京にもともとあったこのお店をリニューアルオープンする形で経営者となった。私が店を訪れたのはそのリニューアルオープン後すぐの頃で、ちょうど東京に用事があって一泊することになったついで、連絡もせず夜に店へお邪魔した。関西からの突然の私の来訪に驚きながらも、オープン直前から直後のドタバタを連日こなしていたのであろう経営者の顔には疲労の色が滲み出ていた。つかれてるね、という私の言葉に「今日はそうでもないよ」と返す彼の声がすでにめちゃくちゃ小さくて、まるで岩の間から冷たく澄んだ水の音がちょろちょろ聞こえているみたいだった。彼の相棒として大学の友人がもう一人、料理長として厨房を切り盛りしていたのだが、椎名林檎の歌に出てくるような華奢で大きなその手には生々しい火傷の跡がいっぱいあった。新しい出発に伴う痛ましい苦労がお店全体に溢れていて、しかしそれはこれから始まる発展と充実した日々を十分に予感させた。私はお店の代表メニューである焼きカレーを注文して食べた。焦げのかかったとろみとコクの利いたルーに熱いチーズが絡まるその味はとても美味しくて新感覚で、思わず「この先の人生で食べるすべてのカレーが焼かれていますように」という訳のわからないことを考えた。私の人生史に焼きカレーの文字が刻まれた記念すべき瞬間だった。

 

 話は冒頭の一人旅に戻る。新幹線と在来線を乗り継いで、門司港に到着したのは昼過ぎのこと。九州の最北端に位置し、明治から戦前にかけて国際貿易港として繁栄したこの港町には、洋食文化がいち早く発展し、焼きカレーというハイカラメニューが誕生して広まった。らしい。駅から歩いてすぐの港周辺にはレトロなレンガ造りの建物が立ち並び、一帯にはすでにカレーのにおいが漂っていた。少し前に東京の神保町を歩いたときにも、古風な書店街にカレーのにおいが立ち込めていたが、カレーのにおいとレトロな景色は相性がいいのかもしれないと感じた。広場でおじいさんが段差に腰掛けて港の景色をスケッチブックに写生していたがその絵がまったく上手くなくて、スケッチブックを覗き込んだ野次馬達がみんな証明写真を撮るときみたいな何とも言えない表情をしていた。でも港で絵を描くおじいさん自体はとても画になっていて素敵だった。天気は薄曇りでとても寒く、港周辺をぶらぶら歩いていたらすぐに体が冷えてきたので、私はいよいよ焼きカレーを食べるお店を選ぶことにした。

 港の中心街を一通り回ったあと、中心から少し外れたところにある喫茶店風の店に目星を付け、ミーハーらしく食べログの点数も確認した上でそこに入店した。店内はなかなか繁盛していて、私はかろうじて空いていたカウンター席に案内され、店で一番人気らしいシーフード焼きカレーを注文した。行き当たりばったりの旅のこの先の予定を考えながら待っていると程なくしてカレーが到着し、私は期待に胸を躍らせながら、「聖地の焼きカレー」を食べた。おいしい。確かにおいしいが、率直に言うとそこまで大きな感動は無かった。器で焼かれたカレー、大衆文化を象徴するような、素朴でくせのないおいしいカレー、それ以上でも以下でもなく、ひとことで言うなら、これはもう、伝統を守るための味なのだろうと思った。この歴史溢れる街並みの中で、発祥当時の由緒ある味を大切に守り続けていく、それが門司港焼きカレーの役割なのだろうと、門司港に来てからこの店にしか入店していないくせに勝手なことを考えながら一心不乱にスプーンを口へ運び、貝の殻を別皿によけて、海老を尻尾まで食べていたらあっという間に完食してしまい、気付けば目の前の窓の外には雨が降り始めていた。雨に打たれる情緒的な港の景色と伝統のカレー味の残り香をぼんやり噛みしめていたら、それに対比されるかのような、あの夜の東京の、武蔵小山のあの店の、初めて食べた新感覚な焼きカレーの味、まだまだ洗練されていない盛り付けだがギンギンに旨いローストビーフや地鶏焼きなどのサイドメニュー、オープンしたての垢ぬけない店内の装飾を無理やり埋めるかのごとく壁にかけられた経営者と料理長の見覚えのある革ジャン2着、などの記憶が思い出されて、何故だかすごくたまらない気持ちになって泣きそうになった。支払いを済ませて退店し、とりあえずこんな街はさっさと出発して博多にでも逃げ込もうと、駅までの道を冷たい雨に打たれながら歩いていたら感傷がどんどん強くなって、もうこのまま日帰りで家に帰ってやろうかとまで思い特急電車の中で関西までの終電の時間を調べたりもした。

 結局その後は博多に住む別の友人と連絡がつながって夜に飲むことになり、天神で一泊したのち、予想外に直前でも予約の取れた軍艦島クルーズに乗ってちびまる子ちゃんが絶句したとき顔に浮かぶ縦線が私の顔にも出てきそうなくらい酷い船酔いに襲われながらも軍艦島への上陸を果たすなどして、旅自体は非常に充実したものとなった。今回の九州に限らず私はたまに一人旅に行くが、一人旅が好きなのかと言われると未だに無条件で好きとは言えない。よく旅の広告などで「見知らぬまちでは、少しおしゃべりになるわたし」みたいなフレーズがまことしやかにうたわれているが、生来からゾイド並みに社交性のない私は異郷を訪れても口数が増えるなんてことはまったくないし、移動中に読もうと思って持ってきた小説なんかもいざ電車に乗り込むとろくすっぽ読む気にならず、景色をボーッと見ながらも気付けば仕事や将来の不安みたいな卑近でろくでもないことを考えているし、単純に死ぬほど疲れるし金もかかるし、はっきり言って旅の時間の半分以上は「くそつまらないな」と思いながら過ごしている。しかしそれでも、旅でしか得られない経験、そこでしか見られない景色、刹那的にでも感情の振り切れる瞬間が必ずあって、それは人生の色をより豊かで繊細にするために、そして大なり小なり何かを創造したり表現したりするためには大切な糧なのだと思っている。すべての旅は娯しみであり修行なのだ。などと、海外旅行にも行ったことがなくて現在ようやくパスポート申請中のド素人が言うのであった。

 

 最後に、私の友人が武蔵小山で経営する焼きカレーのお店、Browny(ブラウニー)を掲載するので、東京にお住まいの方はぜひ脚を運んでみてください。

http://tabelog.com/tokyo/A1317/A131710/13060410/

腸炎

 一昨日の夜に発症した腸炎がようやく落ち着いてきた。直近4年間で早くも3回目の腸炎なのだが、過去2回は下痢が止まらなくなるタイプだったのに対して今回は嘔吐型で、食べたもの飲んだものが(薬も含めて)すべてゲロになって逆戻りしてくるし、さらに高熱と激しい腰痛でろくに眠ることもできないという四面楚歌ぶりは本当に今年屈指の思い出になるくらいすさまじく、フェイスブックに「感冒性胃腸炎 2015.12.13~15」というアルバムを作って39度を示す体温計とか吐瀉物まみれの洋式便器とかの写真を載せればよかったと思うくらいであった。

 経験者は共感してくれると思うが、腸炎という病気は本当に無慈悲な病気だ。たとえば風邪を引いた場合には、喉が痛くなったり、鼻水が出たりなどの心の準備をする段階があるものだし、病院の帰りにコンビニでポカリスエットを買い込んで部屋で休んでいるときにはむしろ、束の間与えられた合法的な休息にささやかな幸福さえ感じたりすることもあるだろう。しかし、腸炎は本当についさっきまで何事もなく過ごしていたところへ突然、言いようのない倦怠感が体全体を襲ってきて、そこから先はひたすら「はい高熱出して!!!! はいゲロ吐いて!!!! はいうんこ漏らして!!!!」という無機質な病状がたたみかけてくるだけの、情緒もへったくれもないハードボイルドな病気なのだ。あまりに無慈悲過ぎて、人心を解さない紫色の宇宙人が自分の体を使って人体実験しているんじゃないかと思ってしまうくらいである。罹患したくない方は是非、食事の際は十分な加熱調理を心がけてもらいたい(私の場合は、過去2回は鳥刺し、今回は生卵が原因だった)。

 それにしても、社会人になってからの4年間、三度に渡る腸炎に加えて、同僚との腕相撲で骨折したことによる手術と入院とリハビリ(+翌年の抜釘手術)、さらにはインフルエンザにも罹患して病院へ行っており、私は千原ジュニアと同じくらい医学の力で再生を受けている。

霊感

 私には霊感が無く、霊の類に遭遇したこともない。霊感のあることを自称する人達が平然とした顔で自身の心霊体験を話しているのを聞くと、「よくそんな平静に暮らしていられるな」と思う。私は霊を信じているわけでもなく、かといって100%いないと思っているわけでもないのだが、もし仮に霊を目撃してしまったら、その霊自体の怖さもさることながら、むしろ自身の死後のことを考えて恐怖に震えてしまうだろう。恐怖とはすなわち、「死後、無になれないことへの絶望」である。霊が実在するということは、まぎれもなく、「自分も死んだあと霊になるかもしれない」ということだ。現世で生きているときの苦しみは、終わりがあるから耐えられる。仕事の繁忙期で睡眠不足が続こうが、手術後の尿道カテーテルが不快で堪らなかろうが、電車で隣の席に座ったおじさんの体からグリーンカレーみたいなにおいがしようが、あと何日、あと何時間、あと何分の辛抱と考えてそれに耐えることができる。あるいは、全部ひっくるめて人生が煩わしくなっても、「死んで土に還ればすべてが終わる」と考えれば気持ちが楽になるものだろう。しかし、死後も霊として苦しみながら存在し続けなければならないとしたら、どういう心持ちでその苦しみに耐えればいいのだろうか。霊として生きる(?)ことが何の苦悩もない、本当に鬼太郎のオープニングのようなワンダフルライフならいいのかもしれないが、様々に伝えられる霊の怨念話などを聞くにつけても、きっとそんな甘い世界ではないのだろう。死んでからも永久に報われることのない懊悩が続くなんて、そんなことはとても信じたくないので、もし万が一死後の世界があるとしても、せめて生きている間はそのことから目を背けていたい。だから私は、このまま一生、霊の類と遭遇する経験などしないまま、死後は無になることを見据えて人生を送りたいと切に願っている。

 ところで私は、霊と直接遭遇したことこそないものの、一種の心霊体験のようなものは一度だけ経験したことがあるので、それを今から紹介したい。ある日の夜中、私は自宅のベッドに寝転がりながら、Youtubeで「世にも奇妙な物語」の『急患』という作品を見た。新種の病気に感染した患者がドロドロした緑色の液体に変化してしまうという怖い話で、主演は 近藤 真彦 だった。夜中の病院を舞台にした陰鬱な映像とグロテスクな描写の連続で、見終わった後も強烈な後味の悪さが残った。試聴中の緊張感のせいか、喉が渇いていることに気付いた私は、近くの自動販売機へ飲み物を買いに行くことにした。深夜1時を回っていたため外はひとけがなく静かで、自販機の明かりだけが不気味に白く光っていた。自販機に小銭を入れ、烏龍茶のボタンを押す。ガタンッ、と大げさな音が鳴り、取り出し口に飲み物が落ちてきた。そこで私はおかしなことに気付く。烏龍茶を選んだはずなのに、出てきたその飲み物の中身は、およそお茶とは思えない不気味な黄色い液体だったのだ。その瞬間、先ほど見たばかりの、近藤 真彦が緑色の液体に変わってしまう映像が、頭の中にフラッシュバックした。恐怖に駆られながらも、私はおそるおそるその飲み物を取り出して、凝視した。MATCH(マッチ)だった。

一人称

 20代の日本人男性がプライベートで使用する一人称は「俺」が最も一般的であると思う。大抵の場合、幼少期には「僕」を使用するが、物心が付いたタイミングで各々「俺」へとシフトしていく。私も普段の生活では「俺」を使用しているが、そこへ行きつくまでには普通の人と違ってかなりの紆余曲折があった。

 記憶にある範囲では、幼少の頃の最も古い自分の一人称は「僕」だった。幼稚園においても後ろ髪を伸ばしているような一部のヤンキッズ達はすでに「俺」を使っていたが、私を含む大多数は「僕」を使用していた。以降、小学校低学年くらいまでの時期に渡って、周囲の皆は思い思いのタイミングで「俺」へと切り替えていった。そのムーヴメントが起こっていることには私も気付いていたが、何となく当時の私は「俺」を使うことに抵抗を感じた。「俺」という呼び方にはどこか、「世界は自分のもの」とでもいうような傲慢で横柄なニュアンスがあるように思えたのだ。実際、周囲のクラスメイト達にとってはまさに「世界は自分のもの」だったのかもしれないが、私は当時から何に付けても「自分みたいなものが…」という自己卑下の発想を持っていたので、「俺」などというそんなキムタクみたいなスタンスで自分のことを呼ぶなんてとてもできないと思っていた。しかし、小学4年生の頃、状況が変わった。クラスの男子達の間で四コマ漫画を描くブームが起こったのだ。私はかねてから家でひとり描きためてきた『ゆびちゃん(人間の人さし指の先端に顔が付いていてそれぞれが意思を持っているという設定のオリジナル・ギャグ漫画)』を学校に持参したところ、これが大当たりだった。『ゆびちゃん』は医療用カルテの裏に描かれた漫画(私の父親が医療事務の仕事をしていたのでカルテの原紙が家にたくさんあった)とは思えないほどの大ヒットを記録し、休み時間になるたびにクラスメイトから新作をせがまれ、私は4年2組を代表する稀代の人気漫画家となった。カルテの端をホッチキスで綴じただけの単行本もたくさん出版した。気を大きくした私は、この波に乗じて自分のことを「俺」と呼ぶようになった。クラスに旋風を起こした小学生にとって「世界は自分のもの」ではなくて誰のものだというのか。私はしばし栄光の俺様ライフを満喫した。しかし、ある日事件が起こる。私はこの当時も、家族の前で「俺」を使うことは恥ずかしくて家にいる間は「僕」で通しており、言わば一人称の二重管理を行っていたのだが、ある日、妹と会話している途中にうっかり自分のことを「俺」と呼んでしまった。言ってすぐ過ちに気付いた私は顔を真っ赤にしながら「俺っていうのはつまり僕のことやで」という統合失調症みたいな言い訳をすることしかできなかった。この事件のダメージが大きかったことに加え、クラスにおける『ゆびちゃん』ブームもやがて過ぎ去っていったことから、私の心はまたイカナゴくぎ煮みたいにシュリンクしてしまい、「俺」などという高慢な一人称はとても使えなくなってきた。しかし今さら「僕」に戻すのもそれはそれで恥ずかしかったので、迷ったあげく選ばれたのが「オラ」だった。いま思えば「僕」より「オラ」の方がよっぽど恥ずかしいのだが、「僕 → 俺」の階段を一度上ってから下りることが困難な以上、水平方向へシフトして「オラ」を使用するしかない、というのが私の出した結論だった。また、生真面目に「僕」と言うよりも、斜に構えて「ダサいなんて知ってますよ」というスタンスからあえて「オラ」を使うことにより成立させようという、今思えばそれこそ本当に一番ダサい発想も少しあった。しかし、当時の私も、全部ひっくるめて「オラ」が恥ずかしいことは何となく分かっていたので、実際に自分を呼ぶときも「オラ」とはっきり発音せず「オァ…」みたいな発音をしていたから、実情としては当時の一人称は「or」に近かったと思う。案の定というか、この一人称を使い始めてしばらく経ったある日、クラスの山田という陽気な貞子みたいな女子が教室の端から「オラってwwwwwオラてwwwwww」みたいなことを言って馬鹿にしてきた(余談であるがまた別の蒸し暑い日の掃除時間にこの山田がふとした拍子に腕を上げた際、その袖口から私は「同い年の女子の腋毛」を初めて目撃してしまいPTSDになりかけた)。それ以来やはり恥ずかしくなった私は一人称を「こっち」に変更した。「こっち」は「オラ」のような恥ずかしさやダサさはなく人畜無害な一人称だったが、例えば皆が「俺ん家(ち)」と言う場面で「こっちの家(いえ)」などというまどろっこしくて不自然な言い回しをしないといけなかったりなど、使い勝手は非常に悪かった。ほどなくして中学に入学し、これを機会に一人称をいよいよ「俺」で統一したいと思ったのだが、いかんせん中学校のクラスメイト達は半分以上が同じ小学校からのメンツだったのでなかなかドラスティックな切り替えができず、結局、中学の3年間をかけて、ようやくメールの文面においてだけ「俺」を使うことができるようになった。メールでは「俺」、対面での会話は「こっち」、家にいるときは「僕」、当時の自分は一人称を三重管理していたことになる。やがて高校へ入学し、周囲のメンバーもほぼ一新され、私は勇気を出してとうとう口頭での一人称も「俺」に切り替えた。私のささやかな高校デビューであった。しかし、こうして全面的に「俺」を使用するようになってからも、やはりどこか「自分みたいなものが…」という気持ちは消えなかった。高校時代の私は軽音楽部という文化系の部活に所属していたのだが、軽音楽部は校内であまり市民権を得られていないマイノリティな部活であったため、バンギラスのような態度で廊下を歩く体育会系の人達に対して私は卑屈なまでの劣等感を持っていた。それを象徴するエピソードとして、私が軽音楽部なのにわざわざ運動部がよく使用するエナメルバッグを買って通学していたことが挙げられる。これは、例えば帝国の植民地にされた国家の民族が服従の意思を積極的に示すため、強制されぬとも自ら自民族の慣習を捨てて帝国の文化に染まっていこうとするようなものである。そんな私であったからなおさら、その環境で自分を「俺」と呼ぶたび、どこか自己卑下と誇大自己が同居しているような、黒船に開国を余儀なくされ攘夷論を抱えながらもやむなく西欧化を目指した明治時代の日本人諸氏がごとき自我分裂の危機へ陥るのであった。不安定ではあったがしかし、さすがにもう他の一人称へ変えるあてもなく、高校時代に無事「俺」を貫き通した私は、そのまま大学を経て、社会人になった今もずっと「俺」を使用している。現在では自我分裂とまではいかないが、やはり未だに意識すると違和感が消えず、自分と「俺」はいつまで経っても調和しきらない。何かもっと、「僕」と「俺」の間に一つくらいちょうどいいの無いですかね。「バキ」とかはどうですか?

サトラレ

 「自分の考えが周囲に伝わっているんじゃないか」、ふとそんなことを思った経験が多かれ少なかれ誰にでもあると思う。私の場合は中学3年~高校1年あたりの頃、この件について本気で悩み込んだ時期があった。その少し前に『サトラレ』という映画(頭で考えていることが周囲に伝わってしまう青年を主人公にした映画。後にドラマ化もされた)が公開されてそれを金曜ロードショーで見た影響もあり、自分こそまさにこのサトラレなのではないかという疑念を抱いて毎日「思春期10人分」くらい悩んでいた。会話している相手の言葉の節々を取り上げては自分の考えを読まれていることを勘繰り、疑心暗鬼はどんどん深まっていった。授業中にわざと猥褻な想像をしては周囲の女子生徒をチラチラ見て、恥ずかしそうに顔を赤らめている人がいないか確かめたりもした(今思えば顔を赤らめていたのは私一人だったのだろう)。自分がサトラレだとして、その症状は先天的か後天的かという視点で考えたこともあった。後者の場合、私と関わっている人間、特に家族は、ある日突然サトラレになった私のせいで平和な日常は一変、大変な苦労を抱えるはめになってしまったことになる。何しろ、同じ家に住みながら、考えが伝わっていることを私に勘付かれないように振る舞わなければならないのだから。それは大変な注意が必要なことで神経がどんどんすり減っていくだろうし、いつか精神錯乱を起こした家族が山岳ベース事件のときの赤軍メンバーみたいになってしまうのではないかという恐怖も感じた。私はサトラレ疑惑を抱えた状態で高校に入学したので、クラスメイトは皆、高校生のふりをしているだけで実は政府直轄サトラレ対策委員会のメンバーなのではないかと疑ったりもした(映画『サトラレ』では、サトラレが自分をサトラレだと気付くことのないよう、サトラレ対策委員会という組織が公権力を行使して様々な措置を実施するのだ)。もし私のサトラレ症状が先天的なものなら事態は更にひどく、私が家族だと思っていた人達も実はサトラレ対策委員会が手配した「訓練された偽家族」かもしれないという話になる。私は当然そんなことは信じたくなかった。例えば、「両親」は大人だからともかく、幼少時代を共に過ごしてきた「妹」のことはどう説明するのか。3歳や4歳の幼児が、サトラレサトラレであることを気付かせないような振る舞いができるとでもいうのか。しかし、政府の英才教育の下ではそれが可能なのかもしれないし、ひょっとしたら一定の年齢に達するまではサトラレの放つ脳波を受信できないのかもしれない。可能性を考え出すと切りがなかった。私は必死に、「自分=サトラレ」説を否定するための根拠を考えた。例えば、『サトラレ』という映画が存在することについて。もし世の中に本物のサトラレがいるとしたら、あんな映画を公開していいはずがないじゃないか。しかし、その発想を逆手にとって敢えて公開することで、現実世界のサトラレを安心させようという狙いだとも考えられる。「自分=サトラレ」説を否定してくれるように思われるどんな根拠も、勘繰って見ればすべてサトラレ対策委員会が仕掛けた工作に思えてしまうのだった。ネットで調べると、私以外にもたくさんの人が「自分はサトラレなのではないか」という悩みを掲示板等で相談していたが、これらもすべてサトラレ対策委員会が用意したフェイクかもしれない。この悩みはどこまで追究しても決して答えが見つからなかった。そもそも、「自分の生まれたときからすべてが虚構だった」という仮定を立てると、自らの常識的感覚で答えを見つけようとしても「そもそもその常識さえ “刷り込まれたもの” だとしたら」というメタ的視点でいくらでも疑えてしまう。私は本当に苦しかった。高校のクラスで気になる女の子と初めて会話できたときも、この子は実際は政府の役人かもしれないとか、この出来事も「今日はサトラレの人生にこういうことを起こそう」というサトラレ対策委員会が書いた未来日記の筋書きでしかないのかもしれないなどと考えて水の無いダムの底にいるような気持ちになった。一生この悩みに苛まれ続けるなら生きていても仕方がないのではないかと本気で思った。しかし、こんな「果てなき悩み」からも、気付けば私はいつの間にか脱却していた。特に何かきっかけがあって悩みが晴れたわけではなく、目の前の雑多なことに追われて生活しているうちに忘れてしまい、たまに思い出しても「馬鹿らしい」と思うだけで全く執着しないようになっていた。とはいえ、あの当時抱いていた、自分とサトラレを結びつける数々の可能性を一つひとつ論理的にすべて否定できるかと言うと、多分それは今の自分にもできないと思う。先述したように、何かについて「あり得ない」と考える自分の思考回路や常識というもの自体が、実は別の誰かの手によって巧みに醸成されたものだとしたら……、そういうことを想定すると「絶対」なんてものは無くなってしまうのだから。私にとって、否、他の誰にとってもそうであるはずだが、「自分はサトラレではないか」という永久に答えの出ない問題は追究などすべきものじゃなく、素知らぬふりをしながら目の前の人生をえびす顔で歩むしかないのだ。最後に、このタイミングで書くのはおかしいが、私がサトラレの悩みを抱き始めるきっかけとなった出来事を紹介する。中学3年の頃、私は家のリビングでソファに座りながら、ふと頭の中で、過去に読んだある漫画の1シーンを思い浮かべていた(そのシーンには「幸せか? サチ」という台詞があった)。すると突然、横でテレビを見ていた小学6年生の妹が、私の方を見て「幸せか? カツオ」と問いかけてきたのだ。私は絶句した。「幸せか? カツオ」である。さっきまで何の会話も交わしていなかった妹が突然「幸せか?」などと脈絡なく聞いてくるのは明らかにおかしい。それにそもそも私は妹から「カツオ」などと呼ばれたことは一度もないし、坊主でもなければ野球もしない。妹は、私が思い浮かべた「幸せか? サチ」という台詞につられてつい「幸せか?」と口走ってしまい、誤魔化しが利かず苦し紛れに「カツオ」などという全く関係のない単語を付け足したのではないか、そう思った私はショックのあまり、妹の発言の意図を確認することもできず、自分の部屋に立てこもって人質みたいに震えた。あの出来事はサトラレ対策委員会の一員である「妹」が犯した致命的なミスだったのか。そうでないとしたら、妹の発言の真意は何だったのか。答えは藪の中である。

ナナフシ

 ふと思い立って茨城県まで大仏を見に行った。牛久大仏は全長120m、日本で最も背の高い立像で、世界でも第3位にランクインしている。以前から私はその御体をこの目で見たいと思っていて、お盆休み3日目、家にいることに飽きたこともありお出かけを決行、新幹線で東京まで出てから上野東京ラインで1時間かけてJR牛久駅へ、さらにそこからタクシーで訛りのひどい運転手さんとほとんど勘で会話しながら田舎の通学路みたいな道をしばし走ると、突如ギャグ漫画のように現れたる巨像。周囲に高いビル等がまったくない中、120mの大仏が唯一そびえ立ち地上を見下ろすその様は、今にも視界の右下に「世界、おしまい☆」というテロップが出てきそうな圧巻の光景だった。

 少し暑さも柔らかくなった夕方の気候の中、大仏を取り囲む公園をグルッと一周し、大仏の内部(中に展望台がある)から景色を眺めたりもして一通り満足した私が駐車場近くのベンチで休もうと思ったら、何やら人だかりができていた。行ってみるとそこに生えている木を取り囲むように10人くらい人がいて、よく聞けば皆「ナナフシ」がどうとか言っている。ナナフシ、図鑑でしか見たことがない、木の枝に擬態するめちゃくちゃ細い虫だ。どうやら野生のナナフシが木にとまっているのを誰かが見つけたらしく、それを周囲が聞きつけて人が集まっているようだ。私も御多聞に漏れず胸が躍った。念願の牛久大仏を拝見できた直後に、これまた人生で初めてナナフシを見ることができるなんて、今回の一人旅偏差値は過去最高を記録するのではないかと思った。私もその人だかりに近付いていったが、人が多い上になにぶんナナフシの御体は大仏のそれと違って非常に細く小さいのでまったくその姿を認識できず、それならばと私は近くのベンチに座って、人が完全にいなくなるのを待ってから一人でゆっくり見ようと決めた。予想通り10分ほど経つと徐々に人が離れていって、残りは母子3人(母親と2人の娘)だけとなった。この人数だと近付けば私もナナフシを見れそうだったが、母子水入らずの中に入っていくのは野暮だし、ここまで来たら最後まで待って独り占めしようという気持ちで、私はベンチに座って背中越しに母子の楽しそうな会話を聞いていた。「あ、動いた」「うわ~ 口があるよ~ すごーい」という幼い女児達の声を聞きながら私の期待はどんどん高まっていった。振り返って見ると母親が細い木の枝にナナフシを乗せて娘達に見せている。その和やかな光景に心温まりながらも、徐々にではあるが私の胸の中に苛立ちに近い気持ちが押し寄せてきた。この母子は私が来たときからすでにここに居たので少なくともかれこれ20分くらいはナナフシに夢中だということになる。要するに「いい加減飽きろよ」ということだ。しばらくすると娘達はさすがに興味が失せてきたらしく明後日の方向を見ながらしゃがみこんでいたのだが、母親(水深800mで圧縮した北斗晶)はまだまだ虜のようでナナフシのとまった枝を自分の目の高さに持ち上げてニヤニヤ微笑んでいた。とうとう娘達が「帰りたーい」と言い始めるも北斗.zip、「ンー♪」などと不気味な返事をしながらナナフシを見つめつつサザエさんみたいなポーズで立っている。私の苛立ちがピークに達しかけていたそのとき、駐車場の方向から祖母らしき人が近付いてきて「帰るよ~」と母子に呼びかけた(私は心の中、投げキッスで祖母を蜂の巣にした)。娘達は待ってましたとばかりに祖母のいる車の方向へ走っていく。これでさすがに母親も観念していよいよナナフシが私のものになるかと思った。しかし母親、車の方へ向かうのは良かったが、なんとナナフシのとまった枝を持ったまま歩きだしたのだ。まさか枝ごとナナフシを家へ持って帰る気なのか? 否、きっと別れを惜しむあまりなかなか手放せないだけで、乗車する直前に草の上にでも解放するだろう。そう信じた私は母親の後ろをついて歩いていったのだが、母親は枝を大事そうに持ったまま、祖母と娘が乗った車の運転席に乗り込みドアをバタンと閉めた。唖然とする私を置いて、車はそのまま走り去っていく。私は立ち尽くし、「マジかよ」と口に出して言った。ナナフシのくっついた枝を持ったまま車に乗り込む大人いる? 本当に家まで持って帰る気? せいぜい車中で持て余して最初のサービスエリアあたりで捨てることになるのでは? 大体てめぇ運転するのかよ。ナナフシを片手に持ったまま運転していいの? ヤフーニュースに『自動車大破、ナナフシ片手に』とかいう記事が出ても笑えないぞ。あんなに近くの距離まで来ていながらとうとうナナフシをまともに見ることができなかった悲しみと母親(奇行種)への怒りが私の胸の中で荒々しく渦を巻いたが、この思いはもうどこにもぶつけようがなく、私は旅の充実感を取り戻すために気持ちを整理した。あの母親にはおそらく何も悪気は無かっただろうし、きっと普段は娘達を大切に育てている良いお母さんなのだ。おそらく、夏の魔法が彼女を天真爛漫な少女へとタイムスリップさせてしまった、それゆえの無邪気な行動だったのだろう。

 しかし、最後にこれだけは言い添えておきたい。

  “大仏は見ている”

ボルダリング

 “趣味になりかけたもの” がたくさんある。何かのきっかけで興味を持ってやり始めるものの、飽き性や怠惰、または別の「やめるきっかけ」のせいで、結局趣味として定着しなかったものが多い。その一つがボルダリングだ。

 3年前の春、新卒で民間企業へ入った私は、4人部屋の寮に暮らしていた。入社して最初の月~金曜日を何とかこなし、初めて迎えた土曜日、私は相部屋の同期の一人であるHと共に電車に乗っていた。Hは笑った顔が高橋克典に似ているナイスガイだった。入寮初日に私があたふたしながら寝具等を運搬しているのをごく自然に手伝ってくれたHを見て、私はもう社会人であり言い逃れようもなく大人なのだから早くこういう余裕を持たなければいけないと焦りに似た気持ちを覚えたものだった。Hの実家は会社(および寮)から電車で2駅の位置にあり、本来入寮する立地ではないのだが、「入社後2週間の研修期間中は全員が寮で共同生活をする」という化石めいた会社の伝統のため、一時的に寮生活をしていた。この日、私達はHが大学生の頃たまに通っていたボルダリングの練習場へ向かっていた。ボルダリングとは簡単に言うと室内版のロッククライミングである。Hは大学時代にボルダリングの魅力を知り、実家の近所にたまたま存在していた無人の練習場へよく行っていたらしい。その話を聞いて興味を持った私はHに連れていってもらうことにした。春のにおいが降りてきそうな快晴の土曜日。一週間ぶりに訪れた「自由に過ごせる一日」に私もHも胸を躍らせていた。社会人として初めての一週間は、今にして思えば過剰なほどに「囚われの身」になったような気持ちで過ごしていたため、大学生だったつい数日前までと同じように束縛から解放された一日を過ごせる事実が、私を大いに安堵させた。目的の駅についてしばらく歩くと、第7サティアンを四分の一スケールにした感じの無機質な倉庫が目の前に現れた。中に入ると、壁一面にカラフルな石が無数に配置され、床にはマットが敷き詰められていた。『テレビやインターネット等で見たことのある光景!』、私はそう思いながら胸を高鳴らせた。しかし、話には聞いていたが、インストラクターはおろか受付の人さえいない、本当に解放された無人の練習場だった。専用のシューズが置いてあるスペースでジャージに着替え、集金箱に500円(一応、一回の利用料500円と決まっているらしい)を入れて、私達はマットの上に踏み込んだ。よく見回すと、壁の隅に整形外科の電話番号が記載されていた。そして壁面のところどころに、どう見ても血痕じゃないかと思われる赤い痕跡も付着している。それらを見ると不安に襲われたが、この石だらけの壁を目の前にして登るのを断念するのは、便器を目の前にして小便を我慢するのと同じくらい耐えられないことだった。Hがさっそく、口頭で要領を説明しながら見本を見せてくれた。私も言われるがままにやってみた。ボルダリングは、石伝いに壁を登っていくという単純な作業のように思えて、実際は体重移動などコツをつかまなければいけないポイントが多く、また登っていく手順も、どの石をどのような順番で選びながら進むかによって行きつけるゴールが変わったり、途中で手詰まりになってしまったりもする、非常に戦略的で奥深いスポーツだった。私は試行錯誤を繰り返した。脳の中の運動をつかさどる神経に、新しい回路が突貫工事で築かれていくのを感じた。予想以上に筋肉へのダメージが大きく、すぐに覚醒剤使用末期のマッキー(槇原敬之)みたいに腕がプルプルになり、結局その日は一番初心者向けのゴールをクリアできたにとどまった。それでも私の心は晴れやかだった。「来週もここへ来たい」とHに言った。充実感が必要だった。社会人としての生活に希望が無かったわけではない。この生活の中で何を目指して、どんなことに希望を持って生きていくか、会社へ入る前から幾度となく整理をしていた。いつか手放しの自由が失われることはずっと昔から分かっていたし、覚悟を決める時間だって十分にあった。しかしそれでも、いざそこに突入してしまったときの不安、戸惑い、そして虚無感はあまりに大きくて分厚くて、ハッタリだけの覚悟なんて遠き日のブブゼラの音色みたいに消えてしまった。溺れるような毎日の中で、小さな希望を大切に積み重ねていきたかった。

 翌週金曜日の夜、今度は私とHの他に、UとWという別の同期も加えて4人で練習場へ向かった。UもWもボルダリングはこの日が初めてだった。Uは関東の出自で、東京に恋人を置いてこちら関西まで出向いてきているらしい。Wはスマイリーキクチに似ている。社会人になってたった2週間であったが、すでに華金の喜びは我々の感覚の中にまるで生まれながらにしてあったもののように定着していた。練習場に着き、忌々しいスーツを脱いでジャージに着替え、私達は石壁と格闘し始めた。Wは枝の生えたマッチ棒のように細い体付きであったが、その見た目とは裏腹になかなかテンポよく石を登っていた。体重の軽さゆえに負荷が少ないのだろうとHはコメントを付した。逆にUは筋肉質な見た目であったがかなり苦戦していた。このあたり一筋縄でいかない所もボルダリングのおもしろさなのかもしれない。私はと言うと、先週到達できなかった石に到達できるようになった。嬉しかった。この暮らしの中に、僅かずつでも確かに、積み上がっていくものができた気がした。Hは序盤、初体験組に少し指導をした後は、ビギナー達と少し離れた中級コースで黙々とトライ&エラーを繰り返していた。時おり背中越しに見えるHのファインプレーに、私は心の中で拍手を送った。全員の腕に乳酸が溜まりきってもう嫌になってきた頃合、練習場を後にし、皆でラーメンを食べに行った。掘りごたつの席で、みんな脚を組んでふんぞりかえりながら談笑した。4人いるメンバーのうち私を含めた3人が若年性高血圧だという事実も判明し、ささやかな宴は盛り上がった。終わり頃、ジョッキのビールを飲みほしたUが、「こんなことなら大学院へ進めば良かった。早まって就職なんかするんじゃなかった」と、マンドリルみたいに真っ赤な顔で泣きごとを言い始めた。Uは理系であるが、大学院には進まず学部卒で就職したのだ。他の3人は冗談めかしてUをなだめたが、誰もが内心は身につまされる思いだった。『飛べない鳥は取り残されて 胸や背中は大人だけれど』『限りない喜びは遥か遠く 前に進むだけで精一杯』、筋肉質な体を極限まで猫背にして弱音を吐くUを見て、自然とイエモンの歌詞が私の頭に降りてきた。自分の人生が自分のものであることは素晴らしいことで、そして気が狂いそうなほど心細い。いつか何でもないことのように思って、シャンとした気持ちで朝を迎えられるのだろうか。このときの私達にできたのは、ただ藁一筋の希望にすがりながら、泳げるようになるまで溺れ続けることだけだった。

 さらに翌週の金曜夜、私達4人はまた練習場へ来ていた。Wは風邪で微熱があるにも関わらず参加していた(私には彼の気持ちが分かる気がした)。各々、先週よりも高みをめざして石を掴み、踏みしめる。まるでこの所業が、自分の人生の背骨であるかのように。そんな中、私は狼狽していた。先週は到達できた石に、なぜか今日は到達できなかったのだ。一度は自分のものにできたゴールが、今日はすごく遠くに感じる。これは一大事だった。ここへ来るのは今日で3回目。「1→2→3」という風に、着実に向上するのが理想だった。「1→2→2」の現状維持ならば、まだ許せる。しかし、「1→2→1」、これはまずい。最初に逆戻りだ。物事を習得する際にスランプが付きものなのは分かっている。しかし、そういうことは、せめてもっと後の段階で起こってほしかった。このときの私の生活には、着実に積み上がっていくものが必要で、それが無いと、自分の中のすべてが崩れ落ちてしまいそうだったのだ。ふと周りを見ると、微熱を抱えているはずのWが、先週の私の到達点を超えてさらに高みへ進んでいた。Uも着実に記録を伸ばしている。取り残されるのは私なのか? 焦燥感に駆られ、何度も石にすがりついたが、両腕はもう十円玉がたくさん埋め込まれているかのように言うことをきかなくなっていた。先週までは心地良く感じた腕の疲労感が、この日はとてつもなく不快でしかたなかった。

 そのとき、練習場へ、私達とは別の客が入ってきた。痩せ筋肉質なUやHとは訳が違う、SASUKEオールスターズにいてもおかしくないバキバキ体格に金髪ソフトモヒカンの若い男性と、おそらくその恋人らしい若い女性だった。金髪男性は靴だけを履き替えると(服装は初めからTシャツに短パンの臨戦態勢だった)、鞄の中から何か小さな機械を取り出して操作し始めた。私達は彼らのことが気になりつつもあまりジロジロ見るわけにいかないので、ひとまず壁を登るのに集中することにした。しかしそれもつかの間、突如室内に爆音のミュージック(分からないけどエミネムみたいな外人のラップ曲)が流れ出した。私達はあっけに取られたが、金髪男性はそんな私達に目もくれず、近場の石に手足をかけ、いかにも玄人然とした軽快なペースで華麗なクライミングを披露し始めた。一つ、また一つと石を伝って行くたび、踏ん張っている色黒の手足の筋肉がキュッと引き締まり、肢体が生み出す動きはとてもパワフルで、システマティックで、美しいと言わざるを得なかった。外人の攻撃系ラップがますます激しくなる中、縦横無尽に壁を動き回る金髪の男性は強くて優雅な蜘蛛、プルプルと無様に壁にしがみついている私達は蜘蛛の巣にかかった弱い羽根虫、一瞬そんな例えが思い浮かんだが、すぐにこの例えは正確でないと思った。金髪の男性はそもそも私達のことを狙ってなどいないし、挑発しているわけですらない。私達の存在など歯牙にもかけておらず、ただ “自分のフィールド” で思う存分、強者の舞を踊り狂っているのだ。そして、恋人の女性は椅子に座ったまま、うっとりした恍惚の眼差しでその乱舞を眺め続けている。私達4人は、一人、また一人と壁から離れ、気付けば全員が隅の方に固まって手持ち無沙汰のまま立ち尽くしていた。この瞬間、私達はみんな哲学的に童貞となり、清々しくゼロに戻った。