焼きカレー

 先週末、九州の方までふらっと行ってきた。これといった目的はなく散歩の延長線上のような感覚で新幹線に乗り込んだのだが、せっかく九州に行くのだからということで、以前から気になっていた、福岡県にある焼きカレー発祥の地、門司港を訪れてみようと思った。

 

 私が焼きカレーという料理を初めて食べたのは去年の秋頃のことだった。東京の武蔵小山焼きカレーを看板メニューにしたカフェバーがある。そこは私の大学時代の友人が経営する店だ。大学卒業後に民間企業に就職して名古屋で働いていた彼は昨年脱サラをし、東京にもともとあったこのお店をリニューアルオープンする形で経営者となった。私が店を訪れたのはそのリニューアルオープン後すぐの頃で、ちょうど東京に用事があって一泊することになったついで、連絡もせず夜に店へお邪魔した。関西からの突然の私の来訪に驚きながらも、オープン直前から直後のドタバタを連日こなしていたのであろう経営者の顔には疲労の色が滲み出ていた。つかれてるね、という私の言葉に「今日はそうでもないよ」と返す彼の声がすでにめちゃくちゃ小さくて、まるで岩の間から冷たく澄んだ水の音がちょろちょろ聞こえているみたいだった。彼の相棒として大学の友人がもう一人、料理長として厨房を切り盛りしていたのだが、椎名林檎の歌に出てくるような華奢で大きなその手には生々しい火傷の跡がいっぱいあった。新しい出発に伴う痛ましい苦労がお店全体に溢れていて、しかしそれはこれから始まる発展と充実した日々を十分に予感させた。私はお店の代表メニューである焼きカレーを注文して食べた。焦げのかかったとろみとコクの利いたルーに熱いチーズが絡まるその味はとても美味しくて新感覚で、思わず「この先の人生で食べるすべてのカレーが焼かれていますように」という訳のわからないことを考えた。私の人生史に焼きカレーの文字が刻まれた記念すべき瞬間だった。

 

 話は冒頭の一人旅に戻る。新幹線と在来線を乗り継いで、門司港に到着したのは昼過ぎのこと。九州の最北端に位置し、明治から戦前にかけて国際貿易港として繁栄したこの港町には、洋食文化がいち早く発展し、焼きカレーというハイカラメニューが誕生して広まった。らしい。駅から歩いてすぐの港周辺にはレトロなレンガ造りの建物が立ち並び、一帯にはすでにカレーのにおいが漂っていた。少し前に東京の神保町を歩いたときにも、古風な書店街にカレーのにおいが立ち込めていたが、カレーのにおいとレトロな景色は相性がいいのかもしれないと感じた。広場でおじいさんが段差に腰掛けて港の景色をスケッチブックに写生していたがその絵がまったく上手くなくて、スケッチブックを覗き込んだ野次馬達がみんな証明写真を撮るときみたいな何とも言えない表情をしていた。でも港で絵を描くおじいさん自体はとても画になっていて素敵だった。天気は薄曇りでとても寒く、港周辺をぶらぶら歩いていたらすぐに体が冷えてきたので、私はいよいよ焼きカレーを食べるお店を選ぶことにした。

 港の中心街を一通り回ったあと、中心から少し外れたところにある喫茶店風の店に目星を付け、ミーハーらしく食べログの点数も確認した上でそこに入店した。店内はなかなか繁盛していて、私はかろうじて空いていたカウンター席に案内され、店で一番人気らしいシーフード焼きカレーを注文した。行き当たりばったりの旅のこの先の予定を考えながら待っていると程なくしてカレーが到着し、私は期待に胸を躍らせながら、「聖地の焼きカレー」を食べた。おいしい。確かにおいしいが、率直に言うとそこまで大きな感動は無かった。器で焼かれたカレー、大衆文化を象徴するような、素朴でくせのないおいしいカレー、それ以上でも以下でもなく、ひとことで言うなら、これはもう、伝統を守るための味なのだろうと思った。この歴史溢れる街並みの中で、発祥当時の由緒ある味を大切に守り続けていく、それが門司港焼きカレーの役割なのだろうと、門司港に来てからこの店にしか入店していないくせに勝手なことを考えながら一心不乱にスプーンを口へ運び、貝の殻を別皿によけて、海老を尻尾まで食べていたらあっという間に完食してしまい、気付けば目の前の窓の外には雨が降り始めていた。雨に打たれる情緒的な港の景色と伝統のカレー味の残り香をぼんやり噛みしめていたら、それに対比されるかのような、あの夜の東京の、武蔵小山のあの店の、初めて食べた新感覚な焼きカレーの味、まだまだ洗練されていない盛り付けだがギンギンに旨いローストビーフや地鶏焼きなどのサイドメニュー、オープンしたての垢ぬけない店内の装飾を無理やり埋めるかのごとく壁にかけられた経営者と料理長の見覚えのある革ジャン2着、などの記憶が思い出されて、何故だかすごくたまらない気持ちになって泣きそうになった。支払いを済ませて退店し、とりあえずこんな街はさっさと出発して博多にでも逃げ込もうと、駅までの道を冷たい雨に打たれながら歩いていたら感傷がどんどん強くなって、もうこのまま日帰りで家に帰ってやろうかとまで思い特急電車の中で関西までの終電の時間を調べたりもした。

 結局その後は博多に住む別の友人と連絡がつながって夜に飲むことになり、天神で一泊したのち、予想外に直前でも予約の取れた軍艦島クルーズに乗ってちびまる子ちゃんが絶句したとき顔に浮かぶ縦線が私の顔にも出てきそうなくらい酷い船酔いに襲われながらも軍艦島への上陸を果たすなどして、旅自体は非常に充実したものとなった。今回の九州に限らず私はたまに一人旅に行くが、一人旅が好きなのかと言われると未だに無条件で好きとは言えない。よく旅の広告などで「見知らぬまちでは、少しおしゃべりになるわたし」みたいなフレーズがまことしやかにうたわれているが、生来からゾイド並みに社交性のない私は異郷を訪れても口数が増えるなんてことはまったくないし、移動中に読もうと思って持ってきた小説なんかもいざ電車に乗り込むとろくすっぽ読む気にならず、景色をボーッと見ながらも気付けば仕事や将来の不安みたいな卑近でろくでもないことを考えているし、単純に死ぬほど疲れるし金もかかるし、はっきり言って旅の時間の半分以上は「くそつまらないな」と思いながら過ごしている。しかしそれでも、旅でしか得られない経験、そこでしか見られない景色、刹那的にでも感情の振り切れる瞬間が必ずあって、それは人生の色をより豊かで繊細にするために、そして大なり小なり何かを創造したり表現したりするためには大切な糧なのだと思っている。すべての旅は娯しみであり修行なのだ。などと、海外旅行にも行ったことがなくて現在ようやくパスポート申請中のド素人が言うのであった。

 

 最後に、私の友人が武蔵小山で経営する焼きカレーのお店、Browny(ブラウニー)を掲載するので、東京にお住まいの方はぜひ脚を運んでみてください。

http://tabelog.com/tokyo/A1317/A131710/13060410/