サトラレ

 「自分の考えが周囲に伝わっているんじゃないか」、ふとそんなことを思った経験が多かれ少なかれ誰にでもあると思う。私の場合は中学3年~高校1年あたりの頃、この件について本気で悩み込んだ時期があった。その少し前に『サトラレ』という映画(頭で考えていることが周囲に伝わってしまう青年を主人公にした映画。後にドラマ化もされた)が公開されてそれを金曜ロードショーで見た影響もあり、自分こそまさにこのサトラレなのではないかという疑念を抱いて毎日「思春期10人分」くらい悩んでいた。会話している相手の言葉の節々を取り上げては自分の考えを読まれていることを勘繰り、疑心暗鬼はどんどん深まっていった。授業中にわざと猥褻な想像をしては周囲の女子生徒をチラチラ見て、恥ずかしそうに顔を赤らめている人がいないか確かめたりもした(今思えば顔を赤らめていたのは私一人だったのだろう)。自分がサトラレだとして、その症状は先天的か後天的かという視点で考えたこともあった。後者の場合、私と関わっている人間、特に家族は、ある日突然サトラレになった私のせいで平和な日常は一変、大変な苦労を抱えるはめになってしまったことになる。何しろ、同じ家に住みながら、考えが伝わっていることを私に勘付かれないように振る舞わなければならないのだから。それは大変な注意が必要なことで神経がどんどんすり減っていくだろうし、いつか精神錯乱を起こした家族が山岳ベース事件のときの赤軍メンバーみたいになってしまうのではないかという恐怖も感じた。私はサトラレ疑惑を抱えた状態で高校に入学したので、クラスメイトは皆、高校生のふりをしているだけで実は政府直轄サトラレ対策委員会のメンバーなのではないかと疑ったりもした(映画『サトラレ』では、サトラレが自分をサトラレだと気付くことのないよう、サトラレ対策委員会という組織が公権力を行使して様々な措置を実施するのだ)。もし私のサトラレ症状が先天的なものなら事態は更にひどく、私が家族だと思っていた人達も実はサトラレ対策委員会が手配した「訓練された偽家族」かもしれないという話になる。私は当然そんなことは信じたくなかった。例えば、「両親」は大人だからともかく、幼少時代を共に過ごしてきた「妹」のことはどう説明するのか。3歳や4歳の幼児が、サトラレサトラレであることを気付かせないような振る舞いができるとでもいうのか。しかし、政府の英才教育の下ではそれが可能なのかもしれないし、ひょっとしたら一定の年齢に達するまではサトラレの放つ脳波を受信できないのかもしれない。可能性を考え出すと切りがなかった。私は必死に、「自分=サトラレ」説を否定するための根拠を考えた。例えば、『サトラレ』という映画が存在することについて。もし世の中に本物のサトラレがいるとしたら、あんな映画を公開していいはずがないじゃないか。しかし、その発想を逆手にとって敢えて公開することで、現実世界のサトラレを安心させようという狙いだとも考えられる。「自分=サトラレ」説を否定してくれるように思われるどんな根拠も、勘繰って見ればすべてサトラレ対策委員会が仕掛けた工作に思えてしまうのだった。ネットで調べると、私以外にもたくさんの人が「自分はサトラレなのではないか」という悩みを掲示板等で相談していたが、これらもすべてサトラレ対策委員会が用意したフェイクかもしれない。この悩みはどこまで追究しても決して答えが見つからなかった。そもそも、「自分の生まれたときからすべてが虚構だった」という仮定を立てると、自らの常識的感覚で答えを見つけようとしても「そもそもその常識さえ “刷り込まれたもの” だとしたら」というメタ的視点でいくらでも疑えてしまう。私は本当に苦しかった。高校のクラスで気になる女の子と初めて会話できたときも、この子は実際は政府の役人かもしれないとか、この出来事も「今日はサトラレの人生にこういうことを起こそう」というサトラレ対策委員会が書いた未来日記の筋書きでしかないのかもしれないなどと考えて水の無いダムの底にいるような気持ちになった。一生この悩みに苛まれ続けるなら生きていても仕方がないのではないかと本気で思った。しかし、こんな「果てなき悩み」からも、気付けば私はいつの間にか脱却していた。特に何かきっかけがあって悩みが晴れたわけではなく、目の前の雑多なことに追われて生活しているうちに忘れてしまい、たまに思い出しても「馬鹿らしい」と思うだけで全く執着しないようになっていた。とはいえ、あの当時抱いていた、自分とサトラレを結びつける数々の可能性を一つひとつ論理的にすべて否定できるかと言うと、多分それは今の自分にもできないと思う。先述したように、何かについて「あり得ない」と考える自分の思考回路や常識というもの自体が、実は別の誰かの手によって巧みに醸成されたものだとしたら……、そういうことを想定すると「絶対」なんてものは無くなってしまうのだから。私にとって、否、他の誰にとってもそうであるはずだが、「自分はサトラレではないか」という永久に答えの出ない問題は追究などすべきものじゃなく、素知らぬふりをしながら目の前の人生をえびす顔で歩むしかないのだ。最後に、このタイミングで書くのはおかしいが、私がサトラレの悩みを抱き始めるきっかけとなった出来事を紹介する。中学3年の頃、私は家のリビングでソファに座りながら、ふと頭の中で、過去に読んだある漫画の1シーンを思い浮かべていた(そのシーンには「幸せか? サチ」という台詞があった)。すると突然、横でテレビを見ていた小学6年生の妹が、私の方を見て「幸せか? カツオ」と問いかけてきたのだ。私は絶句した。「幸せか? カツオ」である。さっきまで何の会話も交わしていなかった妹が突然「幸せか?」などと脈絡なく聞いてくるのは明らかにおかしい。それにそもそも私は妹から「カツオ」などと呼ばれたことは一度もないし、坊主でもなければ野球もしない。妹は、私が思い浮かべた「幸せか? サチ」という台詞につられてつい「幸せか?」と口走ってしまい、誤魔化しが利かず苦し紛れに「カツオ」などという全く関係のない単語を付け足したのではないか、そう思った私はショックのあまり、妹の発言の意図を確認することもできず、自分の部屋に立てこもって人質みたいに震えた。あの出来事はサトラレ対策委員会の一員である「妹」が犯した致命的なミスだったのか。そうでないとしたら、妹の発言の真意は何だったのか。答えは藪の中である。