一人称

 20代の日本人男性がプライベートで使用する一人称は「俺」が最も一般的であると思う。大抵の場合、幼少期には「僕」を使用するが、物心が付いたタイミングで各々「俺」へとシフトしていく。私も普段の生活では「俺」を使用しているが、そこへ行きつくまでには普通の人と違ってかなりの紆余曲折があった。

 記憶にある範囲では、幼少の頃の最も古い自分の一人称は「僕」だった。幼稚園においても後ろ髪を伸ばしているような一部のヤンキッズ達はすでに「俺」を使っていたが、私を含む大多数は「僕」を使用していた。以降、小学校低学年くらいまでの時期に渡って、周囲の皆は思い思いのタイミングで「俺」へと切り替えていった。そのムーヴメントが起こっていることには私も気付いていたが、何となく当時の私は「俺」を使うことに抵抗を感じた。「俺」という呼び方にはどこか、「世界は自分のもの」とでもいうような傲慢で横柄なニュアンスがあるように思えたのだ。実際、周囲のクラスメイト達にとってはまさに「世界は自分のもの」だったのかもしれないが、私は当時から何に付けても「自分みたいなものが…」という自己卑下の発想を持っていたので、「俺」などというそんなキムタクみたいなスタンスで自分のことを呼ぶなんてとてもできないと思っていた。しかし、小学4年生の頃、状況が変わった。クラスの男子達の間で四コマ漫画を描くブームが起こったのだ。私はかねてから家でひとり描きためてきた『ゆびちゃん(人間の人さし指の先端に顔が付いていてそれぞれが意思を持っているという設定のオリジナル・ギャグ漫画)』を学校に持参したところ、これが大当たりだった。『ゆびちゃん』は医療用カルテの裏に描かれた漫画(私の父親が医療事務の仕事をしていたのでカルテの原紙が家にたくさんあった)とは思えないほどの大ヒットを記録し、休み時間になるたびにクラスメイトから新作をせがまれ、私は4年2組を代表する稀代の人気漫画家となった。カルテの端をホッチキスで綴じただけの単行本もたくさん出版した。気を大きくした私は、この波に乗じて自分のことを「俺」と呼ぶようになった。クラスに旋風を起こした小学生にとって「世界は自分のもの」ではなくて誰のものだというのか。私はしばし栄光の俺様ライフを満喫した。しかし、ある日事件が起こる。私はこの当時も、家族の前で「俺」を使うことは恥ずかしくて家にいる間は「僕」で通しており、言わば一人称の二重管理を行っていたのだが、ある日、妹と会話している途中にうっかり自分のことを「俺」と呼んでしまった。言ってすぐ過ちに気付いた私は顔を真っ赤にしながら「俺っていうのはつまり僕のことやで」という統合失調症みたいな言い訳をすることしかできなかった。この事件のダメージが大きかったことに加え、クラスにおける『ゆびちゃん』ブームもやがて過ぎ去っていったことから、私の心はまたイカナゴくぎ煮みたいにシュリンクしてしまい、「俺」などという高慢な一人称はとても使えなくなってきた。しかし今さら「僕」に戻すのもそれはそれで恥ずかしかったので、迷ったあげく選ばれたのが「オラ」だった。いま思えば「僕」より「オラ」の方がよっぽど恥ずかしいのだが、「僕 → 俺」の階段を一度上ってから下りることが困難な以上、水平方向へシフトして「オラ」を使用するしかない、というのが私の出した結論だった。また、生真面目に「僕」と言うよりも、斜に構えて「ダサいなんて知ってますよ」というスタンスからあえて「オラ」を使うことにより成立させようという、今思えばそれこそ本当に一番ダサい発想も少しあった。しかし、当時の私も、全部ひっくるめて「オラ」が恥ずかしいことは何となく分かっていたので、実際に自分を呼ぶときも「オラ」とはっきり発音せず「オァ…」みたいな発音をしていたから、実情としては当時の一人称は「or」に近かったと思う。案の定というか、この一人称を使い始めてしばらく経ったある日、クラスの山田という陽気な貞子みたいな女子が教室の端から「オラってwwwwwオラてwwwwww」みたいなことを言って馬鹿にしてきた(余談であるがまた別の蒸し暑い日の掃除時間にこの山田がふとした拍子に腕を上げた際、その袖口から私は「同い年の女子の腋毛」を初めて目撃してしまいPTSDになりかけた)。それ以来やはり恥ずかしくなった私は一人称を「こっち」に変更した。「こっち」は「オラ」のような恥ずかしさやダサさはなく人畜無害な一人称だったが、例えば皆が「俺ん家(ち)」と言う場面で「こっちの家(いえ)」などというまどろっこしくて不自然な言い回しをしないといけなかったりなど、使い勝手は非常に悪かった。ほどなくして中学に入学し、これを機会に一人称をいよいよ「俺」で統一したいと思ったのだが、いかんせん中学校のクラスメイト達は半分以上が同じ小学校からのメンツだったのでなかなかドラスティックな切り替えができず、結局、中学の3年間をかけて、ようやくメールの文面においてだけ「俺」を使うことができるようになった。メールでは「俺」、対面での会話は「こっち」、家にいるときは「僕」、当時の自分は一人称を三重管理していたことになる。やがて高校へ入学し、周囲のメンバーもほぼ一新され、私は勇気を出してとうとう口頭での一人称も「俺」に切り替えた。私のささやかな高校デビューであった。しかし、こうして全面的に「俺」を使用するようになってからも、やはりどこか「自分みたいなものが…」という気持ちは消えなかった。高校時代の私は軽音楽部という文化系の部活に所属していたのだが、軽音楽部は校内であまり市民権を得られていないマイノリティな部活であったため、バンギラスのような態度で廊下を歩く体育会系の人達に対して私は卑屈なまでの劣等感を持っていた。それを象徴するエピソードとして、私が軽音楽部なのにわざわざ運動部がよく使用するエナメルバッグを買って通学していたことが挙げられる。これは、例えば帝国の植民地にされた国家の民族が服従の意思を積極的に示すため、強制されぬとも自ら自民族の慣習を捨てて帝国の文化に染まっていこうとするようなものである。そんな私であったからなおさら、その環境で自分を「俺」と呼ぶたび、どこか自己卑下と誇大自己が同居しているような、黒船に開国を余儀なくされ攘夷論を抱えながらもやむなく西欧化を目指した明治時代の日本人諸氏がごとき自我分裂の危機へ陥るのであった。不安定ではあったがしかし、さすがにもう他の一人称へ変えるあてもなく、高校時代に無事「俺」を貫き通した私は、そのまま大学を経て、社会人になった今もずっと「俺」を使用している。現在では自我分裂とまではいかないが、やはり未だに意識すると違和感が消えず、自分と「俺」はいつまで経っても調和しきらない。何かもっと、「僕」と「俺」の間に一つくらいちょうどいいの無いですかね。「バキ」とかはどうですか?