ナナフシ

 ふと思い立って茨城県まで大仏を見に行った。牛久大仏は全長120m、日本で最も背の高い立像で、世界でも第3位にランクインしている。以前から私はその御体をこの目で見たいと思っていて、お盆休み3日目、家にいることに飽きたこともありお出かけを決行、新幹線で東京まで出てから上野東京ラインで1時間かけてJR牛久駅へ、さらにそこからタクシーで訛りのひどい運転手さんとほとんど勘で会話しながら田舎の通学路みたいな道をしばし走ると、突如ギャグ漫画のように現れたる巨像。周囲に高いビル等がまったくない中、120mの大仏が唯一そびえ立ち地上を見下ろすその様は、今にも視界の右下に「世界、おしまい☆」というテロップが出てきそうな圧巻の光景だった。

 少し暑さも柔らかくなった夕方の気候の中、大仏を取り囲む公園をグルッと一周し、大仏の内部(中に展望台がある)から景色を眺めたりもして一通り満足した私が駐車場近くのベンチで休もうと思ったら、何やら人だかりができていた。行ってみるとそこに生えている木を取り囲むように10人くらい人がいて、よく聞けば皆「ナナフシ」がどうとか言っている。ナナフシ、図鑑でしか見たことがない、木の枝に擬態するめちゃくちゃ細い虫だ。どうやら野生のナナフシが木にとまっているのを誰かが見つけたらしく、それを周囲が聞きつけて人が集まっているようだ。私も御多聞に漏れず胸が躍った。念願の牛久大仏を拝見できた直後に、これまた人生で初めてナナフシを見ることができるなんて、今回の一人旅偏差値は過去最高を記録するのではないかと思った。私もその人だかりに近付いていったが、人が多い上になにぶんナナフシの御体は大仏のそれと違って非常に細く小さいのでまったくその姿を認識できず、それならばと私は近くのベンチに座って、人が完全にいなくなるのを待ってから一人でゆっくり見ようと決めた。予想通り10分ほど経つと徐々に人が離れていって、残りは母子3人(母親と2人の娘)だけとなった。この人数だと近付けば私もナナフシを見れそうだったが、母子水入らずの中に入っていくのは野暮だし、ここまで来たら最後まで待って独り占めしようという気持ちで、私はベンチに座って背中越しに母子の楽しそうな会話を聞いていた。「あ、動いた」「うわ~ 口があるよ~ すごーい」という幼い女児達の声を聞きながら私の期待はどんどん高まっていった。振り返って見ると母親が細い木の枝にナナフシを乗せて娘達に見せている。その和やかな光景に心温まりながらも、徐々にではあるが私の胸の中に苛立ちに近い気持ちが押し寄せてきた。この母子は私が来たときからすでにここに居たので少なくともかれこれ20分くらいはナナフシに夢中だということになる。要するに「いい加減飽きろよ」ということだ。しばらくすると娘達はさすがに興味が失せてきたらしく明後日の方向を見ながらしゃがみこんでいたのだが、母親(水深800mで圧縮した北斗晶)はまだまだ虜のようでナナフシのとまった枝を自分の目の高さに持ち上げてニヤニヤ微笑んでいた。とうとう娘達が「帰りたーい」と言い始めるも北斗.zip、「ンー♪」などと不気味な返事をしながらナナフシを見つめつつサザエさんみたいなポーズで立っている。私の苛立ちがピークに達しかけていたそのとき、駐車場の方向から祖母らしき人が近付いてきて「帰るよ~」と母子に呼びかけた(私は心の中、投げキッスで祖母を蜂の巣にした)。娘達は待ってましたとばかりに祖母のいる車の方向へ走っていく。これでさすがに母親も観念していよいよナナフシが私のものになるかと思った。しかし母親、車の方へ向かうのは良かったが、なんとナナフシのとまった枝を持ったまま歩きだしたのだ。まさか枝ごとナナフシを家へ持って帰る気なのか? 否、きっと別れを惜しむあまりなかなか手放せないだけで、乗車する直前に草の上にでも解放するだろう。そう信じた私は母親の後ろをついて歩いていったのだが、母親は枝を大事そうに持ったまま、祖母と娘が乗った車の運転席に乗り込みドアをバタンと閉めた。唖然とする私を置いて、車はそのまま走り去っていく。私は立ち尽くし、「マジかよ」と口に出して言った。ナナフシのくっついた枝を持ったまま車に乗り込む大人いる? 本当に家まで持って帰る気? せいぜい車中で持て余して最初のサービスエリアあたりで捨てることになるのでは? 大体てめぇ運転するのかよ。ナナフシを片手に持ったまま運転していいの? ヤフーニュースに『自動車大破、ナナフシ片手に』とかいう記事が出ても笑えないぞ。あんなに近くの距離まで来ていながらとうとうナナフシをまともに見ることができなかった悲しみと母親(奇行種)への怒りが私の胸の中で荒々しく渦を巻いたが、この思いはもうどこにもぶつけようがなく、私は旅の充実感を取り戻すために気持ちを整理した。あの母親にはおそらく何も悪気は無かっただろうし、きっと普段は娘達を大切に育てている良いお母さんなのだ。おそらく、夏の魔法が彼女を天真爛漫な少女へとタイムスリップさせてしまった、それゆえの無邪気な行動だったのだろう。

 しかし、最後にこれだけは言い添えておきたい。

  “大仏は見ている”