コピーライティング

 コピーライティングについて少し書きたい。

 

 コピーライティングとは何か、などと今さら説明するまでもないかもしれないが、それは広告宣伝のための文章を書くことである。なぜいきなりコピーライティングについて書こうと思ったかと言うと、最近読んだとあるブログの中にコピーライティングについての筆者の見解が述べられている箇所があり、それについて少し考えるところがあったからだ。

 

 以下にそのブログから該当箇所を(無断で)引用する。

 

 

「コピーライティングにあまり好感がないこころは、たったワンフレーズでパラダイムをシフトしよう、しうる、と考えていそうなあさましさ。そういうのって好きじゃない。一発逆転をねらうような飢えた芸術のようなものはすこし胸焼けがする」

 

 

 一口にコピーライティングと言っても実際はキャッチコピーとかボディコピーとか色々あるのだが、文中に「ワンフレーズ」とある通りここで言及されているのは「キャッチコピー」のことである。広告の中で一番目を引く大文字のフレーズ、簡潔な一文、文字通り消費者の心をキャッチするためのコピーのことだ。

 上記の引用文を読んだとき、自分は「半分は実態と違っている気がするし、半分は的を射ている」というようなことを思った。以下に自分の考えを記載していくが、別に上記の引用文の内容が正しいか誤っているかということを具に議論するつもりはなくて、あくまでこれをきっかけに日頃思っていた雑感のようなものを書いていくだけのつもりである。

 

 まず記載しておくが(あるいはもっと記事の初めに記載しておくべきだったのかもしれないが)、「コピーライティングについての考えを書く」と言いながら、別に自分はコピーの世界の権威でもなければそもそもコピーライターでもないし、まずもって広告業界で働く人間ですらない。自分とコピーライティングとの関わりは、それこそまさに上記の引用文に記載されている「一発逆転をねらうような飢えた芸術」というものに自分が卑しくも憧れていた時期、コピーライティングという何だかいかにも付け焼刃でそれっぽく仕上げられそうな創作活動にその一発逆転の可能性を期待して、「宣伝会議」という出版社が主催する「コピーライター養成講座」なるものに半年間通っていたという、ただそれだけの縁なのだ。その講座は毎回、広告業界の第一線で活躍するコピーライターの方々が講師として来てくださり、コピーについての講義および課題の実践・講評をしていただけるという内容だった。

 半年間の講座に通って、当初のコピーライティングについての認識を塗り替えられた最も根本的な部分は、「そもそもコピーは芸術じゃない」ということだった。コピーはあくまで広告効果を最大化するための様々な手段の一つでしかなく、自己実現欲求をギトギトに漲らせたエセ文化人が己の内に秘めた並々ならぬ造詣をワンフレーズのキャッチコピーに詰め込んでパラダイムの一発逆転を狙う、という趣旨のものではなかったのである。もっとも、広告効果の最大化という目的を果たすための手段として「パラダイムの一発逆転」が可能ならばそれに越したことはないはずで(実際にコピーひとつで世の中のパラダイムを塗り替えることができるのか、もしくは過去の歴史の中で既にそれが実現されているのか、そのあたりの実感は広告業界への知見に乏しい自分に判断は難しいが)、コピーというかそれも含めた広告パッケージとしての最終目標が世の中全体のパラダイム変換に置かれることはあるかもしれない。しかしそれも結局は広告効果の最大化を狙いとしたあくまでビジネス上の方針であって、芸術的な側面からの革新や昇華を狙ったものではないのである。

 大体、冒頭の引用文の筆者もおそらく察しているとおり、キャッチコピーが持つ芸術的価値などというものは(このあたりは感性の話になるので言い切っていいものか微妙だが)極めて薄い。0.02ミリである。これは別にコピーという概念自体が程度の低いものであるとか芸術作品よりも下に置かれるものだとか言いたいわけではなく、そもそも目的が違うのだから比較のしようがないのだ。「美ら海水族館餃子の王将はどちらが優れているか」と言われても答えようがないのと同じである。ポスターなどの広告媒体に載ったキャッチコピーがいかにも典雅で美しくアーティスティックに見えるのは、あくまでも「広告表現」という一連の枠組みの中において視覚聴覚を駆使した御化粧とそこに付与されたストーリー性により言葉が水を得た魚のように活き活きしているがゆえのことであって、もしキャッチコピーのワンフレーズだけが裸で転がっていたとしたら、よしんばそれが優れたコピーなら「なるほど!」という気付きはあるだろうが、それでも芸術的価値という点では味噌のカスだ(言い過ぎか?)。しかしくどいようだがコピーはそれで問題ないのである。最小限のコストで人の心を動かし行動してもらう(芸術的な揺さぶりではなく、短期的or長期的な購買行動を促すような気付きを与える)ことがコピーの役割だ。そして一度でもコピーライティングに挑戦してみた人には分かるだろうが、これがとても難しい。言葉の上での表現技法というのはもちろん重要ではあるがあくまで二次的なもので、良いコピーの必要条件は何と言っても「対象製品やサービスの新たな価値を提案する」ということなのだ。良いコピーを書くことはすなわち良い企画を考えることとほぼ同義なのである。言葉が持つ芸術性の問題ではない。

 

 ここまでが冒頭の引用文について「実態と違う」と思った部分についての記述であったが、一方で的を射ているというか「そりゃ自然とそう感じるよな」という側面もあるように思う。それも自分がコピーライター養成講座に半年間通ったり広告に関する書籍を読んだりする中で感じたことなのだが、プロのコピーライターの方々というのは基本的に、過去の自分のような半ば芸術家志望でコピーライティングの門を叩く自己実現乞食みたいな人達に対しては決まって「コピーは芸術ではなくビジネスの手段だ」とたしなめ口調で諭す割に、一方で自身はどこか文化人を気取っていて、自分たちの作品(ほらそもそも「作品」とか言ってんじゃん)にも芸術的愛着を感じているところがある。コピーライターにも色々な方がいると思うのでひとくくりには言えないが、少なくとも業界全体にそのような「俺たち知的文化人」的な空気が幅を利かせているのは間違いない。ピンと来ない人は明日にでも大型書店に行って東京コピーライターズクラブが出している『コピー年鑑』とか読んでみてほしい。コピーの良し悪しを基準に審査したその年の優秀な広告の数々が掲載されているのだが、とにかく誌面全体に徹底した知的文化人的ナルチシズムが溢れている。広告のプロが広告を審査すること自体は間違っていないと思うが、あれだけ口を酸っぱくして広告をビジネスだと言い張るなら、評論文や解説にまで気取った文章や体裁を貫くのはほどほどにして、もう少しビジネス的側面からの評価や分析を定量的に(審査過程ではそこも議論されているのかもしれないが)解説していってもいいのではないだろうか。

 とはいえ「広告=ビジネス」という事実はあくまで製作側が認識しておくべきことであって、消費者にはいかにそれを広告だと思わせずにリーチできるかが勝負だろうから、一般消費者も目を通し得る作品(?)集の中身としてはある意味それが安全なのかもしれないが、コピーライティング業界全体をひとつの主体として見たときに少し自画自賛の色が濃すぎて冒頭の引用文の通り確かに胸焼けしてしまう。ちなみにこれだけ色々書いておきながら自分もコピー年鑑の2012年度版はしっかり持っていて何度も読み返している。御値段20,000円也(←マジですよ)。

 

 とりとめのない文章になったが、以上が冒頭の引用文に関連した自分のコピーライティングに関する雑感である。書き終ってみればトータルでコピーを蔑んでいるかのような書き方をしてしまったかもしれないが決してそんなことはないし、むしろ言葉を駆使して人の心を動かすコピーライティングへの関心は今でも尽きておらず、宣伝会議が主催するその名も「宣伝会議賞」という年に一度のキャッチコピーのコンテストには2年連続100件単位のコピー(参加者の中では特段多い方ではないはず)を応募しているし今年もきっと応募するだろう。コンテストで受賞できない腹いせにこんな誰が見ているかも分からないブログでジメジメとコピー業界を悪く言っているという落伍者の様相に陥らないよう、今年あたりは何らかの賞を取るべくまたカリカリ頑張りたい。