松本人志

 「松ちゃんがつまらなくなった」と言われ始めて久しい。笑いの先駆者:松本人志(以下、敬称略)はもう過去の遺産だとまで言われたりしている。確かに私自身「すべらない話」や「IPPONグランプリ」を見ていても出演者の中で松本人志の話および回答が一番つまらないと感じる。昔ならば「松本人志で笑えないのはそいつにセンスがないからだ」とまで言わしめるほどの尖鋭なおもしろさだったが、今の松本人志の笑いに「センスが無いと理解できない」ような鋭敏さや新しさは何もない。「すべらない」でも「IPPON」でも、全部理解できる上でつまらない。

 

 松本人志がつまらなくなった理由としてよく「単純に加齢のせい」ということが言われる(私も概ね同意である)。歳を取ったというのはすなわち「感性」で勝負できなくなったということである。

 松本人志が笑いの分野で踏んできた場数は常人にとても想像できるものではなく、数十年の経験、試行錯誤の中で笑いに対する理屈や方法論も十分に固まっていっただろう。実際、IPPONグランプリで御題が出るたびに入る松本チェアマンの解説にはいつも素晴らしい納得感と発見を与えてもらえる(私はもうIPPONグランプリの一番の見所はここだとさえ思っている)。ただ、昔の松本人志にあって今の松本人志にないのはもう一つの「感性」の側面である。どれほど体系立った盤石に見える理論であっても、「笑い」などというどこまでいってもつかみどころのない分野を完璧に網羅的に説明しきることなどできるわけがなく、石垣の間を水が通り抜けるように、その理論だけでは「おもしろいもの」と「おもしろくないもの」を峻別しきることはできない。そこで(ありきたりな展開で申し訳ないが)感性である。理屈でこしらえたガチガチで不格好な「笑い」を聴衆に解き放つその前に、今まで積み上げた理屈を一旦すべて崩して、完全に他人の視点へ切り替えて「じゃぁ、結局それはおもしろいのか?」と純粋に感覚的に問いかける、このステップが必要なのだと思う。これによって、パッケージを押さえただけの「おもしろもどき」なネタを聴衆に公開するネタの中から排除したり、おもしろいものをよりシャープなおもしろさに変形していくことができる。若かりし頃の松本人志なら、むしろこの感性によってこそ新しい笑いをどんどん創っていき、自分が創り上げたもののおもしろさの理由を後付けで補足的に分析して理論を構築していくという日々だったのだろうと推察できるが、今やその感性は悲しいほど鈍っており(これはお年寄りが往々にして客観的な視点や感覚を持てず持論や経験談に固執することと通じているかもしれない)、理屈でこしらえたコテコテの笑いを繰り出すか、たまに鋭く光るボケがあったとしてもそれは過去のストックを掘り起こしてきたにすぎなかったりする。

 

 「松ちゃんがつまらない」というテーマで近年大きな話題になったのが御存知ツイッターである。「リンカーン」の企画で確か浜田雅功(敬称略)以外のリンカーンメンバー全員がツイッターを始めたのだが、その中での松本人志アカウントの内容の酷さは群を抜いていた。

 

 “よく言う最後の晩餐。。。もうすぐ死ぬのに食欲ないやろ”

 

 一読して、寒いを通り越してもはや暑苦しいコテコテさを感じた人が多いかもしれない。いつかの「ガキの使い」のトークで松本人志は「お笑い視力」という話をしていた。要するに、ボケに用いるネタは近過ぎ(ベタ過ぎ)すると「もうえぇわい」となるし、遠過ぎ(一般的な表現の仕方で言うと “シュール” 過ぎ)ると「はぁ?」となるから、その間のちょうどいいポイントを探らないといけないという(言ってみてれば当たり前の)話なのだが、その「お笑い視力」を提唱した松本人志自身のこのツイートなどはド近眼の典型だろう。

 

 十数年前、松本人志は「電波少年」の企画に出演してアメリカ人を笑わせるためのショートムービーを作っていたが、それに挑むにあたってのコメントの中で「アメリカ人を笑わせるために必要なのは “60%の笑い” 。しかし、これは手を抜いてもいいという意味ではなく、“60%の笑い”に “100%の力” を注ぎ込まないといけない」と言っていた。それを聞いた当時の私(小学生)は非常に感銘を受け、別にアメリカ人を笑わせる予定もないのにクラスの友人や家族にこの「松本人志流・アメリカ人の笑わせ方」を伝道して回った。まさにマイミューズ松本人志だった。

 

 翻って、現在の松本人志のツイートをもう一つ。

 

 “歯医者行った。

  歯が汚い汚いやったから。

  綺麗綺麗なった。

  歯医者 歯医者。”

 

 先ほどのツイートとは逆にド遠視のパターンである。完全に焦点が定まっていない。後に松本人志は別ツイートで「鼻歌に歌唱力を求めるかねぇ」と投稿して暗に「そもそもツイッターでは本気を出していない」ということを主張していたが、ではこの歯医者のツイートが過去の松本人志自身が言っていたところの60%の笑い、もしくは40%とか30%の笑いなのかというとそうではなく、そもそも「笑い」という形に収斂していない。「意味不明」以外の何ものでもない。レベルが高いとか低いとか以前の問題である。ここにも私は松本人志の感性の喪失を感じる。昔の松本人志なら、きっとその鋭敏な感性で、上記の2つのツイートのような素材でもそれが一番活きる形の調理をして間違いなく笑いを生んでいただろう。その手段は漫才かもしれないしコントかもしれないし、たとえツイッターであったとしてもその枠の中でおもしろくする表現の最適解を導いていたに違いない。感性を失った今、松本人志ツイッターという新しいツールを得ても、その新しい枠の中で「おもしろくなる」表現を直感的に察知することができず、手持ちの論理で新しいツールに対応するしか術が無いからこのような発散的なものしか生み出せないのだ。

 

 松本人志はこれからどこへ行くのか。もう昔のように「笑い」の分野で新しいものを開拓するとは思えないし、きっと本人にもそのつもりが無いように見える。でも別にそれでいいと思う。どんな一流選手にも引退のときが来るのだし、そもそも「新しいものを生み出せない」というだけで芸人として完全な引退となるわけではない。同世代、もしくはそれ以上の年代の芸人と比較して松本人志の凋落だけが目立って話題になるのは、これまで先進的で偉大な功績を残し過ぎたがゆえのことだろう。音楽界でビートルズが起こした革命の下に様々なジャンルが築かれていったように(私は音楽の歴史について語れるほど詳しくないので、あくまで例として、イメージ程度の話)、松本人志という偉大な男が開拓した笑いの鉱脈は今や様々な方向に掘られ、もはやプロ・アマの枠を超えた所にまでニッチな笑いのフィールドが広がり発展している。一人の人間が残した功績としてはあまりに大きく、「笑いやユーモアこそが人生を彩る」と考えて生きる人達にとって、松本人志はどれだけ感謝してもしきれないほどの人物だろう。僭越ながらそんな人達を代表して私はここに改めて感謝の意を表したい。松ちゃんありがとう(本当は馴れ馴れしく “松ちゃん” などと呼ぶことには抵抗がある。それとはまた別の話だが私は木村祐一のことがおもしろいおもしろくないの問題でなくめちゃくちゃ嫌いだし木村祐一のことを「キム兄(にぃ)」とか呼ぶ一般人も嫌いである)。