クリス松村

 最近、住んでるマンションのすぐ横のゴミ捨て場で、クリス松村に似ている近所のおじさんが夜な夜な野良猫と会話しながらタッパに入れた自前の猫まんまを与えているので周辺が猫の溜まり場になっている。猫がいること自体は別にいいのだが近辺に糞をされることがあるのでそれはたまらない。先日も朝会社へ行こうと思ったら駐輪場の狭い入口に幻の和菓子みたいな艶々の糞が落ちていて面食らった。出勤前からこんなもの見たくないし、通るのに邪魔だし、何よりこの気候のせいもあってにおいが半端じゃない。しかし誰も糞の掃除なんて自らやろうとはしないし、もちろんクリス松村も掃除しないので糞はほったらかしになる。このマンションは毎週火曜日の早朝に清掃業者の人が来て周辺を掃除してくれるので私を含む住人は誰もがそれを心待ちにした。悪いことに糞が御降誕されたのが水曜日だったので住人たちはほぼ丸々一週間のあいだ我慢を強いられることになった。一日、また一日と耐え、ようやく糞とのお別れが近付いてきた月曜日の朝、私が駐輪場へ行くとなぜか糞が消えていた。いや、消えたのではなく、よく見たら漢方薬みたいに完全な粉末状になった糞がさながら盛り塩のように前日までと同じ場所に存在していた。なんで? うんこが急に粉末になることはありますか? 確かに当初の艶々具合は失われてパリパリに乾燥はしていたものの前日までどう見ても立派なうんこだったものが一晩で茶色い盛り塩に化けるなんて。とても自然現象とは考えられないので誰かが意図的にやったのに違いない。クリス松村か? クリス松村がやったのか? なぜ? 罪滅ぼし? 確かに、いかにも「うんこ然」とした糞が堂々と鎮座しているより粉末状の方が見た目の不潔さはいくらか和らぐが、それでも本質的な解決にはなっていない。当たり前だがどうせやるなら完全に片付けてほしい。私はこの名探偵コナウン(粉ウン)事件を勝手にクリスの仕業ということに決めつけてしまったが、こんなヤバいことをするやつが近隣にクリス以外にもいると思いたくなかったのだ。そして明くる火曜日の朝を迎えた。マンションを出るとすでに清掃業者は掃除を終えて撤退していた。私は意気揚々と駐輪場へ向かう。すると、なんということか、粉末(糞末)が昨日と同じ状態でそのまま残っていた。おそらくであるが、粉末になったせいで清掃業者の人がそれを糞だと気付かず掃除しなかったのだ。私は気が遠くなった。クリスの余計なお世話のせいでこのうんこパウダーは自然風化するまでここに存在し続けることになってしまったのだ。そう考えると腹立たしい限りだが、ここにきて私の頭の中に別の可能性が浮かんできた。私は最初からこの糞を猫の糞だと断定していたが、そもそもこれはクリスの糞だったのではないか。クリスはこの場所で野糞をし、糞を置き去りにしたものの、やはり後日、恥ずかしくなって様子を見に来た。砂でもかけて覆い隠せればよかったのだろうがアスファルトなのでそれもできず、せめてもの策として糞を粉状に砕いて帰ったのかもしれない。そして本日、私が会社から帰って駐輪場へ行くと、めちゃくちゃでかいゴキブリがうんこの粉末を食べていた。

タイプK

 経験則であるが、「①そもそも自分に課している目標がめちゃくちゃ低いくせに、②目標を達成することで勝手にすごい自信に溢れている人(以下、タイプKと呼ぶ。KはもちろんキチガイのK)」は周囲にとって非常に害悪な存在である場合が多い。①だけの場合、別に目標が低いのは個人の勝手だし、②だけの場合、自信に溢れているがゆえに態度が横柄だったりして面倒な場合もあるがそれに見合った高い成果を上げて世の中の何かに貢献しているのなら納得もできる。しかし①②の条件を同時に満たすタイプKは本当に百害あって一利無しなので職場でもプライベートでも極力関わらないようにしている。事例を逐一紹介していくのは避けるが、こういう人種が多くいる場所としてチェーンの飲食店の厨房が挙げられる。ここでのタイプKの多くはおそらく古株のパートやアルバイトで、「店のマニュアルやルールを熟知して決まった通りに効率よく動ける」というそれだけのことを自分の矜持にして悦に入っている。彼ら(彼女ら)を害悪たらしめる大きな特徴が「(客にも聞こえるくらいの声で)他の店員を叱責する」ことである。少し考えれば、目の前で誰かが怒られているのを見ながら食事をするなんて気分が悪いことくらい分かるはずなのだが、タイプKは店のルールを完璧にこなしているだけで自分が高みに登りつめた気分になれるので、「お客さんに気持ち良く食事してもらおう」とかそういう本質的だけど明文化されていないことはどうでもいい、というか考えにも及ばないのだろう。自信の大きさゆえに声も態度も大きいから本当にたちが悪く、男女問わず大抵ピザの生地みたいな顔をしている(今回、別にこれ以上深く書きたい内容があるわけでもなく、なぜ唐突にこんなことを記事にしたかというと、この二日間私は非常に体調が悪くてほとんど何もできず、「せめて今日の最後くらいは」という気持ちで近所のおいしいカレー屋さんへ晩飯を食べに行ったら、大学生っぽい男の店員<その店唯一のタイプK>が私の横のカウンター席で私のカレーより量も具材も遥かに豪華なまかないカレーを食べながら厨房の女の子たちに向かってシンクロ日本代表の監督みたいに指示を連発し始めてさすがに「去んでくれ」という気持ちが溢れたからです)。

債権回収会社

 今住んでいる部屋で一人暮らしを始めたのが3年前の夏になるが、入居してまもなくの頃に怪しげな債権回収会社とかいう組織からひとことで言うと「早く金を振り込め」と記載されたハガキが届いた。宛名は自分の名前ではなかったのでおそらく前の住人が借金を抱えたまま夜逃げのような形でこの部屋を出たのだろうと想像できた。もう住人が変わっていることをこの債権回収会社とやらに連絡した方がいいのかとも思ったが何となくそのようなうさんくさい会社に連絡を入れるのは気が進まなかったし放っておけばそのうち来なくなるだろうくらいの気持ちで何も対応しないでいた。するとまた一ヶ月もしないうちに同じ内容のハガキが届いた。それ以降も、無視しても無視しても銀之丞くんからの手紙みたいに一定のペースで請求のハガキは届き続けた。やはりどこかのタイミングで連絡を入れた方が良かったのだろうがちょうどそのころ仕事が大変な時期に入っていたこともありそんなハガキなどに気を回している場合ではなかったので自分は何もしなかった。やがて一年ほどが経っても変わらずに請求のハガキは届き続け、自分は「今さら連絡できない」という気持ちに加えて、一年以上も膠着状態なのに「ハガキを送り続ける」というやり方から何も方法を改善しようとしない債権回収会社のずさんな仕事ぶりに腹が立つ面もあり、こうなったらずっと無視を決め込んでやろう、もし今後、この宛名の主がすでにここにはいないことを債権回収会社が知って、「何で連絡しなかったんだ」などという文句を自分に対して言ってこようものなら思いっきり逆切れしてやる、不毛なルーチンワークぶりを批判して "Changes for the Better" の理念を説いてやる、と強く意気込んだ。しばらくまた同じようにハガキが届き続けたのだが、ある日いつもと違ってA4サイズの封筒が届いたので開けてみると「これ以上払わないなら法的措置を云々」みたいなことが書かれた文書が入っていた。こんな脅しでビビるものかと自分のボルテージはさらに上がったが、それ以降、今まで定期的に一枚のハガキが来るだけだったのが一度に三枚の親展封筒が届くようになるなど銀之丞くんからの恋文もどんどんエスカレートしていき、さすがの自分も月のない夜道を歩いているときに雇われスナイパーにこめかみをブチ抜かれやしないか不安になったり、近所のマンションのベランダで主婦が洗濯物叩きの棒を振り上げただけのことを自分に手榴弾を投げつけてきたものと勘違いして「あなやっ」と悲鳴を上げそうになったりした。そんな日々をしばらく送って、ついこの一週間ほど前、債権回収会社から久しぶりにハガキの様式が届いた。読んでみると「○○(前住人の名前)様はこちらの住所に住んでいらっしゃいますでしょうか。下記より選択した上で御返送ください。1.住んでいる 2.住んでいない」という内容だった。こんな適当なやり方でいいのかよと思いながらも、このハガキを返送することをもってようやく請求と襲撃の恐怖から解放されるという安堵感、および長い戦いに勝利した達成感で胸がいっぱいになった。しかしその週は仕事が忙しかったこともありハガキのことはすっかり忘れてしまってようやく思い出したのが今この記事を書いている数時間前。ハガキを持って自転車にまたがり自分は駅前のポストへ向かった。しかしハガキを投函しようとしたその直前、「1.住んでいる 2.住んでいない」のどちらの項目にも丸を付けていないことに気付く。筆記用具を持っていなかったので仕方なく自転車を漕ぎ直して最寄りのコンビニでボールペンを購入し、「2.住んでいない」に丸を付け、再びポストへ向かうため自転車に乗ろうとしたのだが、ここで自転車の鍵が行方不明になった。どのポケットを探っても無い。コンビニ店内へ戻って探してみても無い。もちろん自転車に付けっぱなしなわけでもない(あらかじめ書いておくがこの自転車の鍵の件はこの記事の後半で見つかるとかそういうわけではなくて本当にこれを書いている今も見つかっていないマジ物の迷宮入り神隠しとなってしまった)。どうしようもないのでとりあえず徒歩でポストまで行ってハガキの投函だけは済ませつつ自転車の件の対処法を考えたのだが鍵がどこにもない以上もはや壊すしかなかった。コンビニまで戻ってスマホを取り出し、「自転車の鍵の壊し方」を調べようとしたがちょうど昨日、一昨日にpideo動画サイトで初代ウルトラマンの動画を見漁ったせいで通信規制がかかっておりネットに繋ぐことさえできなかった。やむなく自分は自転車の後輪を持ち上げながらエイコラエイコラと最寄りの自転車屋まで自転車を運び、そこで事情を話して鍵を壊してもらえないかとお願いしたら、吸血植物ケロニア(※)とまったく同じ顔をしたおじさん店員に「そうやって自転車を盗難する人がいるからここで新しい鍵の取り付けを行うという条件でしか壊すことはできません。取り付けには8,000円かかりますが」と本当にこの文言の通り言われた。「取り付けはせずに別売りのチェーン鍵をここで購入するからそれで何卒お願いします」と交渉して何とか承ってもらい、マッド歯医者さんみたいなでっかいペンチで鍵を壊してもらった。代わりに500円のチェーン鍵をその場で買って、疲れ果てたまま近くのラーメン屋でつけ麺を食べ、鍵を壊したての自転車を漕いでようやく家まで着いたときにさっき購入したチェーン鍵をラーメン屋に置き忘れたことに気付き、また自転車を漕いで取りに戻ったら店内に鬱病で一年半休職している職場の先輩がいた。

 

※吸血植物ケロニア

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松本人志

 「松ちゃんがつまらなくなった」と言われ始めて久しい。笑いの先駆者:松本人志(以下、敬称略)はもう過去の遺産だとまで言われたりしている。確かに私自身「すべらない話」や「IPPONグランプリ」を見ていても出演者の中で松本人志の話および回答が一番つまらないと感じる。昔ならば「松本人志で笑えないのはそいつにセンスがないからだ」とまで言わしめるほどの尖鋭なおもしろさだったが、今の松本人志の笑いに「センスが無いと理解できない」ような鋭敏さや新しさは何もない。「すべらない」でも「IPPON」でも、全部理解できる上でつまらない。

 

 松本人志がつまらなくなった理由としてよく「単純に加齢のせい」ということが言われる(私も概ね同意である)。歳を取ったというのはすなわち「感性」で勝負できなくなったということである。

 松本人志が笑いの分野で踏んできた場数は常人にとても想像できるものではなく、数十年の経験、試行錯誤の中で笑いに対する理屈や方法論も十分に固まっていっただろう。実際、IPPONグランプリで御題が出るたびに入る松本チェアマンの解説にはいつも素晴らしい納得感と発見を与えてもらえる(私はもうIPPONグランプリの一番の見所はここだとさえ思っている)。ただ、昔の松本人志にあって今の松本人志にないのはもう一つの「感性」の側面である。どれほど体系立った盤石に見える理論であっても、「笑い」などというどこまでいってもつかみどころのない分野を完璧に網羅的に説明しきることなどできるわけがなく、石垣の間を水が通り抜けるように、その理論だけでは「おもしろいもの」と「おもしろくないもの」を峻別しきることはできない。そこで(ありきたりな展開で申し訳ないが)感性である。理屈でこしらえたガチガチで不格好な「笑い」を聴衆に解き放つその前に、今まで積み上げた理屈を一旦すべて崩して、完全に他人の視点へ切り替えて「じゃぁ、結局それはおもしろいのか?」と純粋に感覚的に問いかける、このステップが必要なのだと思う。これによって、パッケージを押さえただけの「おもしろもどき」なネタを聴衆に公開するネタの中から排除したり、おもしろいものをよりシャープなおもしろさに変形していくことができる。若かりし頃の松本人志なら、むしろこの感性によってこそ新しい笑いをどんどん創っていき、自分が創り上げたもののおもしろさの理由を後付けで補足的に分析して理論を構築していくという日々だったのだろうと推察できるが、今やその感性は悲しいほど鈍っており(これはお年寄りが往々にして客観的な視点や感覚を持てず持論や経験談に固執することと通じているかもしれない)、理屈でこしらえたコテコテの笑いを繰り出すか、たまに鋭く光るボケがあったとしてもそれは過去のストックを掘り起こしてきたにすぎなかったりする。

 

 「松ちゃんがつまらない」というテーマで近年大きな話題になったのが御存知ツイッターである。「リンカーン」の企画で確か浜田雅功(敬称略)以外のリンカーンメンバー全員がツイッターを始めたのだが、その中での松本人志アカウントの内容の酷さは群を抜いていた。

 

 “よく言う最後の晩餐。。。もうすぐ死ぬのに食欲ないやろ”

 

 一読して、寒いを通り越してもはや暑苦しいコテコテさを感じた人が多いかもしれない。いつかの「ガキの使い」のトークで松本人志は「お笑い視力」という話をしていた。要するに、ボケに用いるネタは近過ぎ(ベタ過ぎ)すると「もうえぇわい」となるし、遠過ぎ(一般的な表現の仕方で言うと “シュール” 過ぎ)ると「はぁ?」となるから、その間のちょうどいいポイントを探らないといけないという(言ってみてれば当たり前の)話なのだが、その「お笑い視力」を提唱した松本人志自身のこのツイートなどはド近眼の典型だろう。

 

 十数年前、松本人志は「電波少年」の企画に出演してアメリカ人を笑わせるためのショートムービーを作っていたが、それに挑むにあたってのコメントの中で「アメリカ人を笑わせるために必要なのは “60%の笑い” 。しかし、これは手を抜いてもいいという意味ではなく、“60%の笑い”に “100%の力” を注ぎ込まないといけない」と言っていた。それを聞いた当時の私(小学生)は非常に感銘を受け、別にアメリカ人を笑わせる予定もないのにクラスの友人や家族にこの「松本人志流・アメリカ人の笑わせ方」を伝道して回った。まさにマイミューズ松本人志だった。

 

 翻って、現在の松本人志のツイートをもう一つ。

 

 “歯医者行った。

  歯が汚い汚いやったから。

  綺麗綺麗なった。

  歯医者 歯医者。”

 

 先ほどのツイートとは逆にド遠視のパターンである。完全に焦点が定まっていない。後に松本人志は別ツイートで「鼻歌に歌唱力を求めるかねぇ」と投稿して暗に「そもそもツイッターでは本気を出していない」ということを主張していたが、ではこの歯医者のツイートが過去の松本人志自身が言っていたところの60%の笑い、もしくは40%とか30%の笑いなのかというとそうではなく、そもそも「笑い」という形に収斂していない。「意味不明」以外の何ものでもない。レベルが高いとか低いとか以前の問題である。ここにも私は松本人志の感性の喪失を感じる。昔の松本人志なら、きっとその鋭敏な感性で、上記の2つのツイートのような素材でもそれが一番活きる形の調理をして間違いなく笑いを生んでいただろう。その手段は漫才かもしれないしコントかもしれないし、たとえツイッターであったとしてもその枠の中でおもしろくする表現の最適解を導いていたに違いない。感性を失った今、松本人志ツイッターという新しいツールを得ても、その新しい枠の中で「おもしろくなる」表現を直感的に察知することができず、手持ちの論理で新しいツールに対応するしか術が無いからこのような発散的なものしか生み出せないのだ。

 

 松本人志はこれからどこへ行くのか。もう昔のように「笑い」の分野で新しいものを開拓するとは思えないし、きっと本人にもそのつもりが無いように見える。でも別にそれでいいと思う。どんな一流選手にも引退のときが来るのだし、そもそも「新しいものを生み出せない」というだけで芸人として完全な引退となるわけではない。同世代、もしくはそれ以上の年代の芸人と比較して松本人志の凋落だけが目立って話題になるのは、これまで先進的で偉大な功績を残し過ぎたがゆえのことだろう。音楽界でビートルズが起こした革命の下に様々なジャンルが築かれていったように(私は音楽の歴史について語れるほど詳しくないので、あくまで例として、イメージ程度の話)、松本人志という偉大な男が開拓した笑いの鉱脈は今や様々な方向に掘られ、もはやプロ・アマの枠を超えた所にまでニッチな笑いのフィールドが広がり発展している。一人の人間が残した功績としてはあまりに大きく、「笑いやユーモアこそが人生を彩る」と考えて生きる人達にとって、松本人志はどれだけ感謝してもしきれないほどの人物だろう。僭越ながらそんな人達を代表して私はここに改めて感謝の意を表したい。松ちゃんありがとう(本当は馴れ馴れしく “松ちゃん” などと呼ぶことには抵抗がある。それとはまた別の話だが私は木村祐一のことがおもしろいおもしろくないの問題でなくめちゃくちゃ嫌いだし木村祐一のことを「キム兄(にぃ)」とか呼ぶ一般人も嫌いである)。

 

 

通ってきた道

 前のめりに退社して帰り道の定食屋でヒレカツ定食を食べていると斜め向かいの家族連れの席で1~2歳くらいの女の子がサイレンのようなけたたましい奇声をヴォーヴォー上げていて、当然イライラする気持ちは生じれどもそこはまぁその年頃の子どもが健やかに育つ過程では自然なことで少なくとも子ども自身に罪はないのだと考えながら、そういえばよく「(騒がしくして周囲に迷惑を掛けるのは)お前も子どもの頃に通ってきた道なのだから許してあげなさい」という諭し方をする人がいるなと思念し、私自身がどんぐり坊やのようにかわいかった幼少時代、自他共に認めるほど聞きわけがよくおとなしい子どもだったから(それが良いことか悪いことかは別にして)、そのような「お前も通ってきた道だから」などという理屈を押し付けられても納得など到底できないばかりか、きっとそういう人は他のどんなことにおいても「自分がこうだった」ことは「相手もそうなのだ」と軽率に決め込む厄介な人なのだろうと今日の機会に烙印を押し、果てには目の前で騒いでいるこの女児も数十年先には「あなたも通ってきた道なんだから」と諭す側になるのだろうかと余計な想像を膨らませて私も奇声を上げたくなりつつ御会計。

夢見マン

 昔から寝付きが悪いのでよく夢を見るのだが、最近その寝付きの悪さに拍車がかかってきてそれに伴い特殊な夢を見ることが多くなった。「特殊な夢」というのは単にストーリーが特殊だとかそういう次元ではなく夢の性格そのものが従来とはかなり異質なものになったのである。ここではこの異質な夢のことを「夢未満」と表現することにしたい。

 以下、「夢未満」の特徴を従来の夢と比較して述べる。

 

1.夢未満はきめ細かい。視覚的解像度のきめ細かさや具体性という特徴もあるが特筆すべきはストーリー展開のディテールである。従来の夢のストーリーは基本的に荒唐無稽で脈絡を欠いた話がデジタルにポンポン進行していくものが多かったが、夢未満は設定こそ突飛なものでありながらそこからの流れは細部の因果関係がしっかりしており猥雑で現実感を持ったきめ細かい展開が繰り広げられていく。

 

2.夢未満は自分の意思で止められる。まず夢の中にも明晰夢というものがあって、これは夢を見ているときに「自分は夢を見ている」ということを自覚するものであり、巧くなれば夢の内容を自在に操ることもできたりするそうだが、あくまでこれは特殊なパターンであり、基本的に夢は夢と自覚されないのが普通でその夢の展開を受け入れるかどうかを判断する権利は主観から剥奪されている。しかし夢未満の場合、当初はそれが夢未満だという自覚の無いまま話が進む点は普通の夢と同じだが、どうしても行き詰ったり「これ以上は辛くてたまらない」と感じたときはごく自然に「じゃぁそろそろやめよう」という気持ちが降ってきて、金縛りを解くときのようなもどかしさを感じながらも自らの思考を現実世界に「よっこらしょ」と引き戻すことができる。

 

3.夢未満は忘れない。普通の夢は目を覚ました瞬間から秒単位で加速度的に筋書きが忘却の空へ消えていくが、夢未満は少なくとも目覚めた瞬間に覚えていたことはその後もずっと覚えている。先述したきめ細かいディテールゆえに忘れにくいのか、もしくは忘れにくいがゆえに起きたとき「きめ細かい話だった」と思い返されるのか、そのあたりの関係ははっきりしないがとにかく夢未満は忘れない。

 

 以上3点が主要な「夢未満」の特徴である。基本的に夢よりも濃密な内容であるためネーミングとしては「夢以上」の方がふさわしいのでは? と感じる方もおられるかもしれないが、「現実⇔夢」という関係の中では両者の中間に位置するだろうという観点で「夢未満」と名付けることにした。

 

 以下に、ちょうど今朝自分が見た夢未満の内容を記していきたい。「今朝」と記載したのは、昨夜自分は持ち前の寝付きの悪さをこじらせて明け方まで一睡もできず、そのまま朝5時半に近所のなか卯へ行って目玉焼き納豆朝定食を食べ帰ってきたあとようやくウトウトして目を閉じた際に夢未満を見たからだ(夢未満はこのように浅い眠りとさえ呼べるのかも微妙な夢うつつ状態のときによく見られる)。内容は3本立てであった。それぞれの話に関連はなく言わばオムニバス形式である。

 

 

 まず初め、公民館の会議室のような場所で自分を含めた若い男女複数人がホワイトボードの周りに集まって議論をしている。議題は『ダウン症の胎児を中絶することは悪か否か』というものだった。各々が持論を熱く交わしている中、まるで映画『バトルロワイアル』の川田章吾登場シーンみたいに隅の方に座って腕を組んで何も発言しない男がいる。友人Mだ。Mが黙っている理由は、この議題に明るくないとか、性格が引っ込み思案だからとかそういうことではなく、彼のシリアスな表情から察するに、安易に言葉にするのも憚られるほどの深長な思いを胸に抱いているのだろう。やがて議論は一旦休憩となって各々トイレとかに行き、また定刻に集合したらMがいない。周囲をよく見ると置き手紙が残されていた。手紙にはM直筆の『俺は中絶を許さない。この意思を行動で示すべく、俺は今からダウン症の新生児を首尾よく出産する』という文面と、近くにある小さな神社の鳥居の白黒写真が貼られていた。『Mはこの神社で、今まさにダウン症の新生児を出産する気だ』 誰もが事態を把握し、Mの行動に善悪の判断を下すことは一旦保留して、公民館のドアを蹴破り神社へと走った。

 

 二話目、国道の高架下。一人の女性が歩いている。自分は小走りでその女性を追い越して立ちどまり、金網に手をかけながら女性へ話しかける。

「お嬢さん初めまして、今度当社から登場した新しいiPhoneに興味はございませんか?」

 女性はくすくす笑っている。それは当然、初めましてでも何でもなく、この女性は高校時代に自分と同じクラスで掃除当番も同じグループだったからお互い顔見知りなのだ。自分の冗談を受け流しつつ女性は質問をする。

女性「今もまだ仲良くやってるの?」

自分「うん、やってるよ。このあとも3人でファミリーマートへ行くのさ」

 女性が言及したのは、自分が平素から仲良くしている男の友人2人のことである(彼らに名前は無いので仮にA、Bとする。Aは身長が3メートルほどある)。我ら3人が「サンコイチ」なことはこの街では常識であった。

 場面がファミリーマートの店内へ切り替わり、自分はA、Bと店内を物色している。そこへ突如、顔なじみのヤンキー6人組がやってきて我々を取り囲んだ。

「よぉ兄ちゃん、お金貸してくれよ」

 ヤンキーの一員であるジャルジャル福徳が挑発をかけてくる。自分はアイスコーナーの中からチョコモナカジャンボを手に取り再びアイスコーナーの中へ投げつけた。福徳に投げつけずにアイスコーナーの中へ投げつけたのは商品を棄損しないようにという配慮からだ。福徳を含めたヤンキー達は怒ってにじり寄ってくる。俺とBがAの方を一瞥する。Aは一瞬の間を置いた後「ずらかれーーー!!」と叫び、自分たち3人は店外へ飛び出した。

 そこは広大なグラウンドだった。自分は走った(通常夢の中では脚がもつれてうまく走れないはずだがこの「夢未満」の中では現実世界以上に速いピッチで走ることができた)。当初ヤンキーは6人だったのに気付けば『逃走中』のハンターみたいに草むらの中とか色々な所からヤンキーが出てきて自分は彼らをかわしながら広大なグラウンドを『トムとジェリー』のように逃げ回った。逃げ回りながら自分は『明日からゴールデンウィークなので、奴らとしても今日中に片を付けておきたいのだろう』ということを考えていた。

 

 三話目、和室の居間に藤子F不二雄のタッチで描かれた架空の核家族が集結している(尚ここからの展開は自分は登場せず神の視点で物語を見ている)。居間の真ん中には布団が敷かれていて、中学生くらいの女の子が意識を失ったまま目を閉じて横たわっている。その女の子は仰向けに寝ているのだが、背中に、真っ白でヒト型の薄っぺらいゴム人形のようなもの(女の子と同じくらいのサイズ)が、ちょうど女の子に後ろからハグをする形でくっついていた。

 家族の中の母親らしき女性が「今は芳しくないけれど、これ(人形)があるからきっと大丈夫」と言い、父親や兄弟姉妹も懸命に笑顔を作る。しかし、当の女の子の容態は悪くなる一方で、しまいには顔が土気色を帯びて皺だらけになり、さながら即身仏の様相を呈してきた。

 そこへ襖を開けて普通にドラえもんが帰ってきた。家族は皆一斉に安堵の表情を浮かべ「ドラちゃんおかえり! 早く助けて!」と言いながら変わり果てた姿の女の子を指差す。ドラえもんは呆れた顔をして、「とんでもない! こいつ(人形)に取り憑かれてしまったら、骨の髄まで腐って死んでしまうんだぞ!」と叫んだ(このシーンだけは漫画のラストコマのように一枚絵になっていて枠取りもされていた)。

コピーライティング

 コピーライティングについて少し書きたい。

 

 コピーライティングとは何か、などと今さら説明するまでもないかもしれないが、それは広告宣伝のための文章を書くことである。なぜいきなりコピーライティングについて書こうと思ったかと言うと、最近読んだとあるブログの中にコピーライティングについての筆者の見解が述べられている箇所があり、それについて少し考えるところがあったからだ。

 

 以下にそのブログから該当箇所を(無断で)引用する。

 

 

「コピーライティングにあまり好感がないこころは、たったワンフレーズでパラダイムをシフトしよう、しうる、と考えていそうなあさましさ。そういうのって好きじゃない。一発逆転をねらうような飢えた芸術のようなものはすこし胸焼けがする」

 

 

 一口にコピーライティングと言っても実際はキャッチコピーとかボディコピーとか色々あるのだが、文中に「ワンフレーズ」とある通りここで言及されているのは「キャッチコピー」のことである。広告の中で一番目を引く大文字のフレーズ、簡潔な一文、文字通り消費者の心をキャッチするためのコピーのことだ。

 上記の引用文を読んだとき、自分は「半分は実態と違っている気がするし、半分は的を射ている」というようなことを思った。以下に自分の考えを記載していくが、別に上記の引用文の内容が正しいか誤っているかということを具に議論するつもりはなくて、あくまでこれをきっかけに日頃思っていた雑感のようなものを書いていくだけのつもりである。

 

 まず記載しておくが(あるいはもっと記事の初めに記載しておくべきだったのかもしれないが)、「コピーライティングについての考えを書く」と言いながら、別に自分はコピーの世界の権威でもなければそもそもコピーライターでもないし、まずもって広告業界で働く人間ですらない。自分とコピーライティングとの関わりは、それこそまさに上記の引用文に記載されている「一発逆転をねらうような飢えた芸術」というものに自分が卑しくも憧れていた時期、コピーライティングという何だかいかにも付け焼刃でそれっぽく仕上げられそうな創作活動にその一発逆転の可能性を期待して、「宣伝会議」という出版社が主催する「コピーライター養成講座」なるものに半年間通っていたという、ただそれだけの縁なのだ。その講座は毎回、広告業界の第一線で活躍するコピーライターの方々が講師として来てくださり、コピーについての講義および課題の実践・講評をしていただけるという内容だった。

 半年間の講座に通って、当初のコピーライティングについての認識を塗り替えられた最も根本的な部分は、「そもそもコピーは芸術じゃない」ということだった。コピーはあくまで広告効果を最大化するための様々な手段の一つでしかなく、自己実現欲求をギトギトに漲らせたエセ文化人が己の内に秘めた並々ならぬ造詣をワンフレーズのキャッチコピーに詰め込んでパラダイムの一発逆転を狙う、という趣旨のものではなかったのである。もっとも、広告効果の最大化という目的を果たすための手段として「パラダイムの一発逆転」が可能ならばそれに越したことはないはずで(実際にコピーひとつで世の中のパラダイムを塗り替えることができるのか、もしくは過去の歴史の中で既にそれが実現されているのか、そのあたりの実感は広告業界への知見に乏しい自分に判断は難しいが)、コピーというかそれも含めた広告パッケージとしての最終目標が世の中全体のパラダイム変換に置かれることはあるかもしれない。しかしそれも結局は広告効果の最大化を狙いとしたあくまでビジネス上の方針であって、芸術的な側面からの革新や昇華を狙ったものではないのである。

 大体、冒頭の引用文の筆者もおそらく察しているとおり、キャッチコピーが持つ芸術的価値などというものは(このあたりは感性の話になるので言い切っていいものか微妙だが)極めて薄い。0.02ミリである。これは別にコピーという概念自体が程度の低いものであるとか芸術作品よりも下に置かれるものだとか言いたいわけではなく、そもそも目的が違うのだから比較のしようがないのだ。「美ら海水族館餃子の王将はどちらが優れているか」と言われても答えようがないのと同じである。ポスターなどの広告媒体に載ったキャッチコピーがいかにも典雅で美しくアーティスティックに見えるのは、あくまでも「広告表現」という一連の枠組みの中において視覚聴覚を駆使した御化粧とそこに付与されたストーリー性により言葉が水を得た魚のように活き活きしているがゆえのことであって、もしキャッチコピーのワンフレーズだけが裸で転がっていたとしたら、よしんばそれが優れたコピーなら「なるほど!」という気付きはあるだろうが、それでも芸術的価値という点では味噌のカスだ(言い過ぎか?)。しかしくどいようだがコピーはそれで問題ないのである。最小限のコストで人の心を動かし行動してもらう(芸術的な揺さぶりではなく、短期的or長期的な購買行動を促すような気付きを与える)ことがコピーの役割だ。そして一度でもコピーライティングに挑戦してみた人には分かるだろうが、これがとても難しい。言葉の上での表現技法というのはもちろん重要ではあるがあくまで二次的なもので、良いコピーの必要条件は何と言っても「対象製品やサービスの新たな価値を提案する」ということなのだ。良いコピーを書くことはすなわち良い企画を考えることとほぼ同義なのである。言葉が持つ芸術性の問題ではない。

 

 ここまでが冒頭の引用文について「実態と違う」と思った部分についての記述であったが、一方で的を射ているというか「そりゃ自然とそう感じるよな」という側面もあるように思う。それも自分がコピーライター養成講座に半年間通ったり広告に関する書籍を読んだりする中で感じたことなのだが、プロのコピーライターの方々というのは基本的に、過去の自分のような半ば芸術家志望でコピーライティングの門を叩く自己実現乞食みたいな人達に対しては決まって「コピーは芸術ではなくビジネスの手段だ」とたしなめ口調で諭す割に、一方で自身はどこか文化人を気取っていて、自分たちの作品(ほらそもそも「作品」とか言ってんじゃん)にも芸術的愛着を感じているところがある。コピーライターにも色々な方がいると思うのでひとくくりには言えないが、少なくとも業界全体にそのような「俺たち知的文化人」的な空気が幅を利かせているのは間違いない。ピンと来ない人は明日にでも大型書店に行って東京コピーライターズクラブが出している『コピー年鑑』とか読んでみてほしい。コピーの良し悪しを基準に審査したその年の優秀な広告の数々が掲載されているのだが、とにかく誌面全体に徹底した知的文化人的ナルチシズムが溢れている。広告のプロが広告を審査すること自体は間違っていないと思うが、あれだけ口を酸っぱくして広告をビジネスだと言い張るなら、評論文や解説にまで気取った文章や体裁を貫くのはほどほどにして、もう少しビジネス的側面からの評価や分析を定量的に(審査過程ではそこも議論されているのかもしれないが)解説していってもいいのではないだろうか。

 とはいえ「広告=ビジネス」という事実はあくまで製作側が認識しておくべきことであって、消費者にはいかにそれを広告だと思わせずにリーチできるかが勝負だろうから、一般消費者も目を通し得る作品(?)集の中身としてはある意味それが安全なのかもしれないが、コピーライティング業界全体をひとつの主体として見たときに少し自画自賛の色が濃すぎて冒頭の引用文の通り確かに胸焼けしてしまう。ちなみにこれだけ色々書いておきながら自分もコピー年鑑の2012年度版はしっかり持っていて何度も読み返している。御値段20,000円也(←マジですよ)。

 

 とりとめのない文章になったが、以上が冒頭の引用文に関連した自分のコピーライティングに関する雑感である。書き終ってみればトータルでコピーを蔑んでいるかのような書き方をしてしまったかもしれないが決してそんなことはないし、むしろ言葉を駆使して人の心を動かすコピーライティングへの関心は今でも尽きておらず、宣伝会議が主催するその名も「宣伝会議賞」という年に一度のキャッチコピーのコンテストには2年連続100件単位のコピー(参加者の中では特段多い方ではないはず)を応募しているし今年もきっと応募するだろう。コンテストで受賞できない腹いせにこんな誰が見ているかも分からないブログでジメジメとコピー業界を悪く言っているという落伍者の様相に陥らないよう、今年あたりは何らかの賞を取るべくまたカリカリ頑張りたい。